サロネン演奏会 ルトスワフスキとベートーヴェン

 エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモ二ア管弦楽団 ピアノ レイフ・オヴェ・アンスネス
 ルトスワフスキ 交響曲第4番(1988~92)~ルトスワフスキ生誕100年記念~
 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
 アンコール ベートーヴェン ピアノソナタ22番 第2楽章
 ~休憩時間~
 ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調 作品92
 アンコール シベリウス 悲しきワルツ
 
 2月7日19時開演 東京オペラシティ コンサートホール
 
 行きたい気持ちがありながら、何の手続きもしないまま当日を迎えてしまった。
 もやもやしながら後悔しても仕方がないと、急遽当日券で聴いてきました。
 実はyoutubeサロネンが演奏しているルトスワフスキ4番を頻繁に聴いていたら、何だか段々好きになってきてしまい、次に誰が何時演奏するか判らない名曲(たぶん)は体験したほうがよさそうだし、もしかしたらサロネンルトスワフスキなんか二度と聴けないかもしれない。生誕100年記念となれば尚更(吉田秀和先生と同い年)と徐々にその気になっていった。好きといっても奇怪な音楽。でも何度も聴いているうちに旋律を記憶。
 ヴィトルト・ルトスワフスキポーランドワルシャワ出身。(1913年1月25日~1994年2月7日)生誕100年ばかり強調されていたから聴衆の大半が知らないかもしれないのは、今日2月7日は作曲家の命日なのだ。ホールに向かう電車の中で(携帯で検索)気がついた。だからルトスワフスキの一日にしようと誓いを立てた。
 
 今回サロネンは全国各地で演奏しているのですが、ルトスワフスキに関しては今日だけだから命日であることを最初から意識していたのだなと感じられた。僕はもう少し早く勉強しておけばよかったと思ったのは、この人はそうとうに悲劇的な体験をしていて、それは経歴の一部を読んでいるだけで息苦しくなってくるほど。混沌の時代に生まれ、ポーランド解放のため軍隊の組織化に参加した理由で父親が処刑され、兄はシベリアに連行され収容所で亡くなった。列強に翻弄された人生。国家に対して個人は常に無力なものである。
 第4交響曲コントラストのはっきりした美しい音楽で、サロネンは「世にも稀な均整と美を放散している。」と言葉にしている。居心地の良さとも悪さとも未熟な僕には判断ができないけれど、常に張り詰めた緊張感に支配され聴いていて飽きることがない。時に訪れる抒情性は記憶の遥か根底に残されている民族的な呪縛なのだろうか、無調であっても有機的に踊るようなサロネンの指揮は見ごたえがあり優美である。この音楽をBGMとした映像があったとしたら、中国の排気ガスのような不確かな空間から現れるのは、未来人?或いは原始人?若しくは我々を鏡に映した姿かもしれない。サロネンは明晰な頭脳を駆使し混沌の中で聴き手に光を照らす。
 ちなみに隣のオジサンは熟睡していた。目覚めた時に世界が変化していたらどうするつもりなのだろう。
 
 ベートーヴェン協奏曲4番は期待のアンスネスの演奏。もの凄く巧いから驚いた。力強く美しい音色。只者ではない。そういえば僕の席は1Fの15列目で、久しぶりにまともな音響環境でピアノ協奏曲を聴いたもんだから幸せな気持ちになってしまった。明日のサントリーはいつものP席に逆戻りだけれど、たまにはこういうのいい。
 カデンツァでリサイタルみたいな空気になってしまい、サロネンが身体を傾けたまま全く動かないから、信頼の証は時間が停止したような緊張感を生み出す。能力の高さは嫉妬を感じるほど。
 指の動きは脳の動きでもあるのだな。音の立ち上げがこれまで聴いてきたピアニストより少しだけ速い特質があって、音楽の連続性が調和と密度を育み、サロネンも即興のように対峙するもんだから、想像以上にベートーヴェンが進化してしまう。正反対は、去年聴いた裸足のアリスSオットーで、あの時は遅くて苛々したと思い出し、ストレスのない音楽の素晴らしさよ、それでいてゆとりがあれば理知的になれるのか、加速せずに抑制の効いた世界。競争のような協調性、これ好ましい。
 アンコールは笑ってしまうくらいもの凄いスピード技を披露した。加速ではない。最初から最後まで速い。聴いたことがあるけれど何の曲だっけ?「ああ、ソナタだ。」と途中で思いだした。ベートーヴェンが聴いたら吃驚するだろうな。
 アンスネスノルウェーの出身。北欧の演奏家って注意したほうがいいのかもしれない。そうとうに頭脳明晰。名演に興奮しながらも、どう考えても日本が負けているから絶望的な気分でもある。もしも協奏曲のスタイルや表現そのものに反旗を翻す人がいたとしたら、いても反論はしないけれど、それっていかがなものでしょうか? 
 
 後半は第7交響曲、『爆演』だった。
 避けては通過できない楽器やピリオドの問題に対し、サロネンは一定の関心を払いながらも、「当時の演奏をそのまま再現するのは無理・・」だそうで(ティンパニやラッパは昔の楽器でやっていた。)出来る範囲を模索しながら今日性を追及する。モーツァルトを例に出し、「あんなに狭い空間でハフナー冒頭を耳にすれば、ライヴハウスでロック大音量と同じ・・」つまり再現よりも聴衆のインパクトを優先させる。名指揮者は大勢いるけれど、漸くまともな意見を聞けた気分がした。楽聖だろうがルトスワフスキだろうが同じように強烈なイマジネーションを提供してしまう。「あんた凄いよ。」とでも語りかけたい。
 たぶんCDでボリューム調整しながら聴いたらピリオド的な空気が微かに感じられるのかもしれないけれど、実情として編成が大きいから大迫力の音量で鳴っていて気がつきにくい。つまり誰もが知っているポピュラーな作品でもやり方次第で衝撃的な世界を創造できるということ。それを知りたければ劇場に行くしかない。
 ほとんど唖然としながら鑑賞していたけれど、冷静に振り返るなら第2楽章はアレグレットのまま、場合によってはもう少し早足だったりと計算されている感じ。それでも終楽章までやってくれば目頭がジーンとしたのはベートーヴェンだから。
 つまり聴いて良かった。
 そういえば2月8日12時30分から、銀座のAppleストアで、フィルハーモニア管弦楽団のiPad専用アプリケーション「オーケストラ」リリース記念でサロネン本人がアプリとデジタルについて語るそうです。
 休む暇もなくマエストロは日本公演を牽引し、次の現実を考えるのでしょう。
 とりあえず、これからマーラーモードに入ります。好き嫌いはこの際どうでもいい。今の僕はデカイ音に餓えている。
 
 最後に今日のアンコール、シベリウス「悲しきワルツ」はルトスワフスキへのオマージュであると気がつかされた。ポーランドの作曲家は京都賞受賞の折、「自分のために作曲している・・」と言葉にされた。4番はたかが20年前の曲。それでもベートーヴェンと組み合わされたプログラムはサロネンの創意工夫の成果。今日は歴史が動いたと思うのです。もう作曲家だけの音楽ではありません。間違いなくあなたが音楽愛好家の心を動かしたのです。聴衆の反応全てが証明していました。スタンディングでの喝采
 札幌でアンコール無しはメインが「春の祭典」だからでしょうし、他の会場ではボッケリーニをベリオが編曲した作品と何かで読んだ。