オペラの森「ニュルンベルクのマイスタージンガー」その1
東京・春・音楽祭 オペラの森2013
ワーグナー楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」演奏会形式全曲・字幕映像付
4月4日15時開演、東京文化会館 3階のR席で鑑賞。
主な配役
ザックス アラン・ヘルド
ポーグナー ギュンター・グロイスベック
コートナー 甲斐栄次郎
ヴァルター クラウス・フロリアン・フォークト
ダービット ヨルグ・シュナイダー
エヴァ アンナ・ガブラー
マクダレーネ ステラ・グリゴリアン 他
何から書いたらいいのか悩んでしまいますが、聴いて良かったと心から思える舞台だったことは間違いなく、日曜日のチケットの売れ具合は知りませんが、興味のある人がいらしたら、ぜひとも劇場に行かれることをお勧めしたいです。
通常のステージにオーケストラと指揮者、奥に合唱団の台座、そのまた奥の壁面に字幕が映し出される仕組み。一番手前オケピット部分の上にセミステージが作られていて、歌手用の譜面台と椅子が置かれている。
つまり歌手の背中に指揮者があちら向きですから連絡が取れない状況。紡ぎだされる音楽だけに互いの信頼関係を委ねる形。一見難しそうに感じられるけれど、破綻の生じないノーマルな世界観が構築されていた。世間がどのように意見するのか分からないけれど、僕はヴァイグレの指揮が期待以上に素晴らしいと思った。オペラの世界にはこういうカペルマイスターが絶対に必要に感じられるのは、歌手も歌いやすいだろうし、聴き手も純粋に作品と対峙することができる。普段はこんなに長い作品、ましてオペラを演奏をしないN響が好演。いつもの金管関係のミスはあるけれど、充分に満足しました。
細かな指摘を始めたら幾つも出てきそうだけれど(長いから色々気がつくけれど)全身でワーグナーが体感できたのですから非常に贅沢な時間だった。
歌手陣は何といってもフォークトの存在が大きかった。
フォークトを聴くのが初めてだったので、あのソフトな声がどのように響くのだろうか?期待と不安の入り混じった気分でしたが、今回本当にオーディオじゃ理解できない世界があることを知ったと申しますか、リリックな声質なのに大きなホール中に響き渡るヘルデンテナーだったのですから驚いてしまった。
極端な例えですが、彼だけマイクを使用しているように聴こえてくるのは何故なのだろう。とても不思議。フォークトは凄いです。
もしかしたらフォークトはアイドル的な資質が高い可能性があって、ロビーで売られていたCDを購入すればブロマイドみたいな写真が貰える仕組みだから、ご婦人方の集団の溜り場になっていた。もし自分がマネージメントする立場なら、例えば「2枚買ったら握手券配布」とか、AKBみたいな商売を考えるかもしれない。
僕はアイドルを否定しない派閥の世界の住人で、かつてコロやペーター・ホフマンが人気があったように、どの時代にもスターテナーは存在してもらいたいと思っている。
震災前まではカウフマンに期待をしていた人も多かったのではなかろうか。でも原発の理由で来日しなかったからアイドルレースから離脱。この代償は大きい。そしてローエングリン代役を務めたボータは、舞台そのものを父パルジファルのように救罪してくれたけれど、ボータはレースとは無縁のオンリーワンのボータである。
声質的には個人的な趣味の問題ですが、3人の中ではボータを好ましく感じている。
何を書いているのだか・・馬鹿らしい。
明日仕事なので、もう書くのを止めます。
ただ、これだけは真面目な話で書いておきたいことがあります。
字幕の翻訳が最悪だった。途中から見ない努力をしていたほど。
誰が担当したのか知らないけれど、職人とは?芸術とは?疑問を持ち、自ら学び、咀嚼し、個性を磨き、ハンス・ザックスのように知性を感じさせ、かつ詩的でなければならない。
何故なら、他ならぬ「マイスタージンガー」だからである。
翻訳家に親方がいるのなら、鞄持ちから始められたらいかがでしょうか。
当ブログタイトル「聖なる朝の夢」はザックスの歌う第3幕から引用した言葉なのですが、「聖なる調べは朝の夢判断?」なんか違うかもしれないけれど、意味不明で最低の文章で驚愕した。
ワルター優勝の歌では、「朝の光はバラ色に輝き・・」で、「光」と「輝」の二文字が果たして必要なのか理解が追いつかない。「朝は薔薇色に輝き」だけでは言葉不足なのか?きっと知識のない僕には理解の及ばない論理が働いているのかもしれませんが、小生がベックメッサーだったのなら×だらけにしただろう。
翻訳家に限っていえばマイスターではない。顔洗って出直して来い。いや、もう来なくていい。
とにかく、細かな話はまた次回。