オペラの森「ニュルンベルクのマイスタージンガー」その2

 昨日仕事を終えて春の嵐の中帰路に付いたのだけれど、途中で腰が痛くなってしまった。眠れば治ると思い込んでいたけれど、そうでもないからこれから整体の先生にアポを取ろうかと思っています。
 肩こり腰痛と無縁な友人は今日もマイスタージンガーを聴くというけれど、途中休憩時間をはさんでも5時間30分ですからこの状態で固い椅子に座り続けていたら悪化しそうで、チケットを購入しなくてよかったのかもしれない。もちろんもう一度聴きたい気持ちはあるけれど。
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 以下思い出す範囲で先日の感想を部分的に紹介します。
 演奏会形式に対しての違和感が3つありました。
 まず、当たり前ですがオーケストラの音がデカすぎる。以前から感じているのですが演奏会形式の場合どうしてピットを使用しないのだろう。もしかしたら、指揮者とオケに主張したい気持ちがあるから?ピットの音よりステージ上のほうが理想的な音を獲得できるから?今回はピットの上にセミステージが作られていたけれど、そうじゃない場合だと少しだけ多くの客席が確保できるから?いずれにしても本当のオペラではない音を我々は聴いたのだと思う。
 二つめは、実際の舞台ならありえない現実が起こるということ。例えば第2幕でワルターエヴァは、ベックメッサーが登場しザックスとのやりとりやラストの騒ぎを含めてずっとステージにいなければ辻褄があわないのに、自分たちの役割が終了したらはけてしまった。確かに数十分もその場にいつづけるのも大変だとは思うけれど、聴き手は「これはお芝居なのだ。」と夢から覚めてしまう。
 そういえば似たような気分を以前テレビでカウフマンがカヴァラドッシを歌った「トスカ」を観ていて感じたと思い出した。オペラそのものが劇中劇の設定でユニークなアイデアだなと思いつつ、最初から劇の中の劇だった時に「死んでいないのだな。」と現実を突きつけられ感動が伴わないのです。
 もう一つは歌手が見つめる楽譜の存在。ワーグナー好きの聴衆は旋律とか全部頭に入っているから、歌を聴いているというより歌を読んでいるものを聴かされている気持ちが勝ってしまう。たとえ楽譜が置かれていても彼らが役柄に没入できているのならまだいい。それでも読んでいる人のほうが多かったから、いささか残念でケチはつけたくないけれどそういう人は未熟と判断せざろうえない。歌が上手とか関係なしで、個人的な印象として役に没入していた人は4人だと感じた。ワルターのフォークト、ベックメッサーのエレート、コートナーの甲斐さん、マクダレーネのグリゴリアンである。フォークトとエレートに関しては百戦錬磨ですから当然だろうけれど。フォークトなんか客席を見つめ優しい声で「エヴァ・・」なんて歌うから女性はみんな自分に対して歌ってくれていると思ってしまうのだろう。代役のエヴァは残念な歌唱。あれで本当にザルツブルクで歌うのかな?それと来年新国でアラベラらしいけれどチケットは買わないぞ。
 一番読む作業が気になってイライラさせられたのはザックスのヘルドで、1幕と2幕は読みっぱなしというか俯いて楽譜しか見ていない感じ。だから僕の好きなニワトコの花のシーンとか感動しなかった。そういえば字幕ではリラの花と表記されていて、ニワトコってリラと一緒の種類?と疑問を覚え、帰宅してから調べてみたら、どうやらドイツではエルダーフラワーと呼ばれていて、ザックス歌いだったヴァイクルは「それはリラ。でも6月のヨハネの祝日にはもう咲いていないからニワトコなのだろう。つまり同じ花。」とか言っている。ワーグナーが花に無頓着だったのか、たまたま狂い咲きだったのか?
 西洋ニワトコの花言葉は「熱心、哀しみや苦しみを癒す人」なんだかザックスそのものである。白い花は純粋なエヴァの象徴とも感じられてくる。
 リラの花言葉は「初恋の感動」で、裏花言葉「すてられた」・・もしかしたらこれもザックスと思えなくもない。
 脱線しかかりましたが、ヘルドのザックスは3幕から読むのではなく歌い始めた。ワルターとの夢解きの二重唱が素晴らしかった。ただ、クライマックスではヘロヘロだったから、こっちは心の中で「頑張れ!あと少しでお仕舞い!」何故か応援していた。
 ベックメッサーは素晴らしかったのですが、音声を工夫しながらコメディ的な表現があり「それは違う」と指摘せざろうえない。誰からも尊敬を受けている市の書記官でなければならないと僕は考えている。
 
 「Nicht Meister!Nein!」をフォークトはソフトに美しく表現する。
 しかし今しか表現できない力が彼にはあるはずで、変化を恐れずにもっと情熱を発揮し、その能力を聴かせてほしい。パンフレットに埼玉大教授が「歴史を捨てて自然に生きたい。」とか書いていて喜劇と意味づけていたけれど「マイスターになりたくない。」は、そんな哲学的なものではないと感じている。
 あれはワルターの「若さ」である。
 若さとはかけがえのない財産であり、時に哀しさを覚えるほどに暴力的。
 ザックスの演説は大人になる為の架け橋であり、マイスターの称号を獲得したワルターは過去に別れを告げる。
 いつまでもこの幸せが続いてほしいと願いたいが、人々に与えられた時間は平等なのです。
 最終的に胸が熱くなる。それがマイスタージンガー