色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)読書感想文

 「3年ぶりの長編小説」となにかの宣伝をみて、ブログを始めたのが「1Q84」を読んだくらいだったから、あれから軽く1000日以上は経過したのだなと思った。
 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という不可解であるけれど村上さんらしいタイトルの本は金曜日に発売された。深夜木曜日から金曜日になる時間帯に渋谷辺りには長い行列ができていると、パソコン画面に写し出されていて、何故このようなムーブメントになってしまったのかとても不思議。
 こういう行列は橋とかトンネルの開通で一番に通過したいから何週間も前から並んでいたり、宝くじの発売前に数寄屋橋に徹夜しながら「庶民のささやかな夢ですから。」・・言葉は美しいが最初に買ったからといって当たるはずもないのに、世の中には暇な人が多いのだなと感心したり呆れたりする。渋谷駅で東急の線路が廃止されたときにファンが押し寄せ改札口にしがみつきながら「出たくないよ!」と叫んでいた男性が印象的だったけれど、どう考えても一方的な偏愛としか思えない。山陰にスターバックスの1号店がオープンした日の行列にしても似たような気持ちを持ってしまったのは、吃驚するほど不味くて身体に悪そうな黒い液体は心臓にも更に道徳的にも善くない。あれはアメリカ人用の飲物である。元来日本人は身体も小さく草食系なのだから注意しなければならない。
 ブログ書庫「文学の話」の最初のほうに「1Q84」の感想があると思う。あのときは最初にブック1と2だったからバッハの平均律みたいだなと思い、ブック3のときは章の数がゴールドベルクの変奏と同じだったから、作者はグールドを聴き吉田秀和の本を読んでいると想起させた。主人公の2人はグールドの最初のゴールドベルクの年に生まれ、彼の最後のCDが発売されたのが1984だったから、勝手にそのように解釈した。
 新作は発売日に駅前の本屋で購入した。どうせ買うなら初版本がいい。
 読む前から気になっていたのは「巡礼の年」というタイトルで、今回はリストだなと想像していた。
 リストは好ましい作曲家だけれど、CDとかはあまり持っていない。ただ演奏会では何度も聴いていて、例えばラザール・ベルマンが「巡礼の年」の一部を東京文化会館で演奏したときのエネルギーが強すぎて、一生分のリストを聴いたような気持ちになってしまったことが、CDの購買意欲減退に繋がっているような気がしていた。もう一人印象に残っているピアニストはテレビで観たアルフレッド・ブレンデル。個人的な思いだけれど、演奏に関してはどちらかといえばマイナス因子が働いている。というのもFMで初めて録音したピアノ曲がこの人の月光ソナタで、感動のあまり来日公演のチケットを購入した。初めて自分からクラシックを聴きにいく意思を示した対象はブレンデルだったのです。中学3年のときだったかな?プログラムはハイドンシューマンベートーヴェンの日とオール・リストで僕は前者を選んだ。後日リストの方がテレビで放送され、それを聴きながら退屈な音楽だなと思ってしまい、ベートーヴェンにして正解だったと感じたことが理由。
 前置きみたいな文章が長くなりましたが、これは前置きではない。
 というのもタイトルの「巡礼の年」とは、やはりリストの作品のことで、主人公が物語の中でレコードを聴くシーンで出てきたピアニストが、そのまんまベルマンとブレンデルだったのだからちょっとした共時性を体験したような感覚で、それだけで忘れがたい小説になりそう。
 ちなみに軸になる曲は第1年の8番「郷愁」 自分の死に場所こそアルプスと手紙があり、郷愁の念が込められている。
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 これから本を読む人が多いでしょうから、ストーリー展開についてはあまり書きたくないが少しだけ。
 多崎つくるは大学時代に死の想念にとりつかれてしまう。きっかけは親友と思っていた4人の友人達からの決別宣言に由来するが、何故自分が一方的に嫌われてしまったのか理解できないでいる。友人たちの名前(苗字)には色が付いている(赤、青、黒、白)が、それだけの理由で自分は色彩を持たない地味で無個性な存在と思い込んでいる。そんな感じでお話が始まるのですが、新しい友情や恋人との出会いを通して、己の存在意義、社会との心の営みを求め彷徨う時間が表現されている。どこか私事として共感したくなるような愛おしさを見出すつくるの言動。循環するネガティヴな思考と具体的な性描写は村上文学特有の魅力。
 躊躇している必要はない。この本は前作以上に面白いから推薦したいと思います。僕は土曜の夜に読み始めたら夢中になり読み終わったときには朝になっていた。
 以下は自分の勝手な妄想のようなもの。
 多崎つくるはタザキツクルと読む。正確には多崎作と書く。この名前はアナグラムかもしれないと最初に感じ取りペンと紙を用意して探りを入れてみたら2つの意味合いを発見した。(と思う。)
 「Tazaki Tsukuru」にして、適当に文字をバラバラにして組み合わせたら、「tsuzukutikara、ツヅクチカラ」つまり「続く力」だと発見して喜んでいたら、ネット上では発売前から常識だったみたいでがっかりした。
 しかし、次はどうだろうか?
 タザキではなく、もしオオサキなら、正確な表記か?文字数の矛盾も生じるけれど、「oosakitsukuru」から、aka ao kuro siro、つまり「赤、青、黒、白」 たぶんこれは誰も気がついていないかもしれない。
 更に追求は続く。何故リストの音楽と色彩の問題がテーマになるのかを考えてみた。
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 この写真はラザール・ベルマンの日本公演パンフレットで、随分昔だったのだな。1988年の1月に全国各地で合計12回の演奏会を行なっている。この年は3つの大きなオペラハウスの引っ越し公演があって、特にスカラ座マゼール指揮「トゥーランドット」ではカラフがマルティヌッチで、クライバーの「ボエーム」はミミがフレーニだし、ミュンヘンオペラはサヴァリッシュでヴァイクル、プライ、コロ、ポップ、モル、シュライヤー、テオ・アダム等で「マイスタージンガー」「アラベラ」「コシ・・」「ドン・ジョバン二」&特別演奏会・・・しかし、小僧の時代によくもまあ資金調達ができたと当時の自分を褒めてあげたい。(当たり前だが破産状態に陥った。)それから聴けなかったけれどスカラ座ヴェルディ「レクイエム」ではムーティ指揮でバルツァの隣で山路さんが歌った。12月に他界した。涙。
 さて、ベルマンのプログラム。
 シューマンソナタ1番、リスト・巡礼の年・2年「イタリア」から「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲・婚礼、ワグナー(リスト編曲)トリスタンとイゾルデから「イゾルデ愛の死」、リスト・巡礼の年2年への追加「ベネツィアナポリ」から、ゴンドラの漕ぎ手、カンツォーネ、タランテラ  アンコールでリストが編曲したシューベルトの魔王を聴いた時の感動ったら・・馬鹿でかいピアノで音も大きく怒涛のリスト!決定的なケミストリーだった。免疫が無いからクラクラしてしまい翌日は寝込んでしまった。熱で魘されながら「愛の死」と「ゴンドラ漕ぎ」と「魔王」が頭の中で鳴り続ける悪夢。
 稀有な演奏会を体験してしまうと、CDなんかは放棄したくなるもんで、こんな本を読んだら聴きたくはなりますが、今は亡きベルマンが奏でた音の記憶は墓場まで道連れでもいいような気持ちになっていた。
 20数年ぶりにパンフレットを読んでいたら気になる文章がありました。ニューヨークタイムスでの批評の一部から引用させていただきますが、色についての表記である。
 「圧倒的なのは音色・・驚くほど幅広い色調や多彩さを引き出した。音色のパレット・勇壮華麗・・8番に出てくる和音が連続する部分は自爆寸前」 この人はいったいなにが言いたいのか理解不能で悪文サンプルみたいですが、色彩のことと8番の和音で自爆寸前なのですから(誰が自爆するのかわからんが)なにか関係がありそう。
 もしかしたら、作者はこの時にニューヨークでベルマンを聴いているのではないだろうか?
 或いは、レコードを所有していて記事を読んだのかもしれない。
 ちなみに第2番だけれど全体の要に感じられる「ダンテを読んで」をリストが着想したのは36歳のときで、それはそのまま小説上の多崎つくるの年齢と符合する。
 音楽を知っているのならより楽しめると思います。
 ぜひ皆様も。