ドッペルゲンガー


Dietrich Fischer-Dieskau "Der Doppelg辰nger" Schubert
 
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 たまたまシューベルト白鳥の歌」から数曲を聴きにいくので、「永遠の故郷・夕映」を読み返していて、ふと吉田秀和先生が他界して一年が経過することに気がついた。
 ↑の歌はディースカウ。本当はプライのイメージだけれど動画が見つからなかった。というのも、プライが最後に来日したシューベルトの演奏会で「白鳥の歌」を聴いていて、作曲家絶筆といわれている「鳩の便り」で歌えなくなってしまった情景が強烈な記憶として心に刻まれているからだと思う。
 終演後に近くにいた誰かが<プライが己の死期を悟って・・>とか話していたけれど、僕の感覚はそこまでロマンテックではなくて、単純に歌詞を忘れたように見えていた。事実プライは、ハイネからザイドルへ移ることに意識が追いつかなかったと弁明している。普通に考えれば、あの大歌手が忘れるはずなんかないとも思うのだけれど、改めて「永遠の故郷」を読み、ハイネだったにしても「ドッペルゲンガー」じゃなければ最後まで歌えたのかもしれないと急に感じられてきた。何故なら聴けば聴くほど凄い曲であり、常人が感化しえない境地にシューベルトが到達したのだろうなと僕は観察する。無駄の省かれた透明度の高い音楽。ああ素晴らしいと思う。
 日本語の「影法師」 あれは間違い。
 ちなみにwikiでは「生きている人間の霊的な生き写し」と紹介されていて、リンカーン芥川龍之介がそいつを見たという話は有名で、見てしまったら近い将来死ぬという。
 プライがそのときにドッペルゲンガー現象に遭遇したとまでは思わないけれど、歌詞を忘れる程度のインパクトはあったのかもしれない。でも直ぐに死んでしまったから、ひょっとすると見たのかもしれない。
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 吉田先生のハイネについての記述を紹介したい。
 『今の私には、この大歌舞伎の六歩を踏んだような形から放射されてくる光は少々眩しすぎる。気恥ずかしくもある。でも、この詩には「真実」がある。それは私にも身に沁みて伝わってくる。何年か前、かつて親しかった友人の住んでいた建物のそばを通った時、当時の姿がそのまま残っているのをみて、思いもよらぬことに、身体の中を戦慄が馳ったのを、私は忘れることができない。』
 
 昨年の5月22日は先生が亡くなったことは公にされていなかった。
 何日か経過してからその訃報を知ることになったが、あの日、僕は異常に落ちこみ、お酒を飲んでふらふらしながら寺とか先生のご自宅近辺を徘徊し、頭中でディースカウの「菩提樹」が繰り返し鳴っていたから、今振り返ればひょっとして
 Der Mond zeigt mir meine eig,ne Gestalt
 「月が照らし出したのは、ほかならぬ僕の姿だったのだ」のような気がしなくもない。
 つまり、なんだ?危うく皆のところに行くことになっていたと、ふと思った。
 こんな気持ちでいられるとき、恐怖心とはさかさまであっちの世界もそう悪いところではないのかもしれないなんて感じられてくるけれど、ハンス・カストルプよ!僕はまだ菩提樹に愛の言葉を刻んでいない。
 
 
 この記事はどの書庫にしたらいいのやら。
 とりあえず満天の星々を思い、文学ということで。