エレクトラ 2013年プロヴァンス サロネン&シェロー

 プロヴァンスの音楽祭R・シュトラウスエレクトラ」が動画配信されていたので鑑賞しました。
 〈エレクトラ〉E・ヘルリツェウス  〈クリテムネストラ〉W・マイヤー  〈クリソテミス〉A・ピエチョンカ  〈オレスト〉M・ぺトレンコ他  指揮E-P・サロネン パリ管弦楽団 演出P・シェロー という、なんとまあ現在望みうる最高級メンバーによる上演。本当は現地に出動したい気分でしたが生活にゆとりがないので、このような動画配信は有難いシステムである。しかも素晴らしい上演だった。これほどまでにPC画面に釘付けになったのは初めてで、最終的には全身鳥肌だから、現地で観られた人に嫉妬を覚えたほど。
 ブログ書いていて最近つくづく思うのは、音楽好きは多いのにオペラ好きがあんまりいない現実だろうか。
 でも考えてみれば昔からそんなものかもしれないのは、今みたいにネットでチケットが買えない時代の安席発売日にプレイガイドに一生懸命並んでみると、そこに集う人々はどこの引っ越し公演でも毎回同じメンバーばかりで、公演の日になれば当たり前だけれど文化会館5階は同じ住人。そんなことからコミュニケーション上問題がなく音楽の好みが近ければ何人かとは仲良くなったりした。つまり、限られた人だけが劇場に行くのかと思っていた。笑えるのはドイツの劇場で休憩時間にお茶していたら「あら、こんにちは。席はどこ?」ととある女性に声をかけられ、思わず「ここは上野か!」と返事したことがあった。そういえばあの時代のオペラファンとのその後の付き合いは殆んどなく、劇場でもお会いすることがなくなった。皆どうしているのだろうと思いつつ、時間の経過とはそんなものなのかもしれない。
 
 「エレクトラ」のあらすじ
 王アガメムノンと王妃クリテムネストラの娘がエレクトラ。クリテムネストラの不倫相手がエギストで、二人は帰還した王を殺しちゃう。怒り爆発のエレクトラは復讐を企てるが「姉さんは狙われている。やばいわよ。」と妹のクリソテミスから忠告を受ける。そこに良心の呵責に悩んだ母クリテムネストラが現れ「悪夢に悩んでいるから秘儀を教えて。」みたいなことを言うが、エレクトラは心の中で「だって自分がいけないんじゃないの」と思いつつ、「アガメムノンが殺された斧であんたの頭を叩き割るかも」と予言する。ビビッタ母親はその場から去る。再び妹が登場し「弟のオレストが死んじゃった。」と言う。エレクトラは「共に復讐しましょう。」と求めるけれど、妹は「怖いから嫌だ。」と逃げる。「じゃあ一人でやるか。」とエレクトラが穴を掘っていると、死んだと思っていた弟が登場するからエレクトラは喜ぶ。弟は宮殿に入っていく。そしたら母の断末魔の叫び声が聞こえる。妹と下女が現れる。エレクトラは松明をかざしエギストを宮殿に導く。エギストが「助けてくれ!」でも駄目。復習は成就。エレクトラは狂喜乱舞しその場に倒れる。妹が「オレスト!オレスト!」と叫ぶ。一幕の気狂いじみたお話。
 
 
 シェローの演出はストーリー上の幾つかの読みかえはあるものの、個人的な感想としては全て想定内の出来事で軽いジャブ程度のインパクト。ぱっと見た印象としては、これまでシェローが作り上げてきた、特にここ数年の「トリスタンとイゾルデ」「死の家」やドミニク・ブランの独り舞台デュラス「苦悩」、映画では「インティマシー」と同じように、社会の底辺でもがき苦しむ人々の日常が表現されている。だからこの「エレクトラ」はありきたりのギリシャのそれではなく(正確には神話が基盤となるけれど)人間が無意識のうちに獲得してきた根源的な秩序に導かれる。先日の記事でチラリと書き、今回動画を見て確信を得たので断言しますが、この舞台は『構造主義』そのものがテーマであり主軸になっている。このことについて説明しだすとどえらく大変なことになるので知らない人は個々に構造主義について調べていただきたいが、真理が実体として存在するなどと考えないほうがいいということ。制度なのです。ブルジョワなインテリがプリミティブな人種や生活様式を「気の毒」とか偏見で見てはいけないという意味もある。
 他の音楽祭だったらもっと高いギャラが貰えたであろう誇り高き歌手人(役者)は、シェローの意図を汲み取り驚くほど緊張感に満ちた舞台を作り上げた。特にヘルリツェウスは長時間にわたりエレクトラを演じ走り時に叫び、最後まで完璧に歌い続けた。危険なほど凄い歌手だと思った。ブリュンヒルデも歌っているけれど、今回のエレクトラこそ芸術家人生の到達点ではないかなと思ったほど。
 マイヤーは業界長いのでそれなりの声質になってきましたが、まだまだ聴きたい。今後本人がこの舞台のように年齢に合った役柄を選べる環境であってほしい。それと年配のマッキンタイヤーとマツーラはさすが存在感のある演技。
 パリ管弦楽団は滅茶苦茶上手いと思いました。最初だけ普段はやっぱりオケピットに不慣れな印象があったけれど、例えば真っ赤な林檎を枝から捥いでそのままガリリと齧ったような味といったら大袈裟かな?甘みと酸味、そして新鮮であるのにゴルゴンゾーラ程度の微かな臭みが感じられる。ブイヤベースだったなら地中海産のカサゴ内臓を取り出さずにそのまま裏ごしして出汁を抽出、それでもスープには濁りがないのはバターを使わずにオリーブオイルだから。トマトは入れない。白ワインと塩とレモンで満足だけれど、ついでにパセリをみじん切りにして上からパラッと振りかけようか。絵画ならプロヴァンスだけにセザンヌ静物画と例えたらいいかもしれない。面で捉える特徴を支えるのはそこに至るまでの職人としてのたゆみないミクロな努力の結晶。地に足がついた重みのある構成力。ちなみにプルーストのメッセージを真似るなら「今度お会いするまでシャワーを浴びないようにしてください。」
 サロネンは素晴らしいと思いましたが、時々あの人特有の癖が聴こえてきて、意識が現実に引き戻される不具合がありました。(それも時間と共に忘れた。)動画は全てステージを写しているので、少しだけ指揮姿を見たい欲求が生まれたのは、サロネンはスポーツカーを運転するようなお洒落でかっこいい演奏をするから。ここでいうスポーツカーとは勿論厄介な個人集団パリ管のことだけれど、「マクロプロス事件」での保守的なウィーンフィルや普段から無個性なフィルハーモニアより相性が良いように感じられた。昔は手続きが大変だったでしょうが、EUになってから国境がなんのその、アクセル全快でふっ飛ばす。ただし人に会うときはシャワーを浴びてからでしょうか。柑橘系の香水が似合う男。つまり、そういうシュトラウス
 
 蛇足ながら、音楽評論家でマメにブログ書いている東○氏の感想を読んだら「表現主義的なデュナーミクの激烈な対比が弱められた・・演出は中庸・・ごちゃごちゃしていて・・悲劇の焦点がぼけた・・」馬鹿言ってんじゃねえ。文章の意味が解らない。たぶん気になる部分が全く異なるのでしょう。インテリを気取るのもいいけれど、お金を貰っているならもう少し勉強してから書いてもらいたい。