2013年11月7日・ヤルヴィ&パリ管弦楽団とカミユ
都内に用事があり、そいつを片付けてから演奏会鑑賞と決めていた。
直前まで悪天候だったので嫌だなと思っていたけれど、玄関を開けたら何時の間にか雨が止んでいたので傘を持たずに家を出ることにした。
バス停に歩きながら思い浮かんだのは、カミユ「異邦人」でムルソーが場末のアパルトマンから外を眺めている。 ≪晴れていた。しかし道路は濡れていた。≫ 湿り気をおび粘ついた道を家族連れが映画館の方向に急ぎ足で歩む姿を観察し、皆で笑い興じながら電車に乗るのだと想像する。
僕は、カミユの書いた「晴れていた。濡れていた。」景色を昔から探していたのだけれど、なかかな気がつかないまま過していた。それに雨が止むたびに似たような状況になるとも限らないのは、直ぐにはお日様は出ないものだし、だいたいその奇跡的なタイミングで外出することなんか普通は無い。
もっとも煙草屋の真似をして椅子の向きを変えるはずもなく、ただバス停に向かって歩いているだけ。
だから僕はムルソーではなく駅と劇場を目指すあの家族の一員だったのかもしれず、どこかで誰かに監視されているような気がしなくもない。バスを待つ。太陽がギラギラ輝きはじめた。乗用車が一台通過。どうせならムルソーでありたいと運転手を睨みつけながら撮影。
みなとみらいに着いたときは既に暗くなっていた。
P席から見た開演10分前のホールは衝撃的な状況。(下の写真。)
お客がいない・・本当にパリ管の演奏会かな?
移動中に携帯電話配信のニュースを読んでいたら「佐渡裕ウィーンへ」と出てきて、そりゃウィーンぐらい出掛けるだろうにと思ったら、トーン・キュンストラー管と契約をしたという内容だった。「あ、そう・・」と昭和天皇のような心のつぶやき。
ポケットのチケットを確認したのは、「もしかしたらパリ管ではなく、パリ交響楽団とか得体の知れない団体かもしれない」とお馬鹿な不安。
プログラム
P席はいつものことだけれど、今回この場所に拘ったのは3番のシンフォニーをオケとオルガンの中間で聴いたらどのような感じなのか体験したかったからなのだ。以前N響でこの曲を聴いてオケと分離するように右側からしか聴こえてこないオルガンに耐えられないストレスを感じたことがあった。NHKはどうしてあんな変な場所にオルガンを設置したのかな。ところが、不慣れな「みなとみらい」席に行ってみてがっかりしたのは5列目と6列目はパイプオルガンの横で、よりによって一番巨大なパイプが直ぐ左側にあるのだから、こんなところで聴いたら音楽もなにもないと怒りに近い感情の揺らぎ。だって音響が渋谷以下の可能盛大。
「カレリア」と「リストP協」はどうでもいいとは思わないけれど、聖なるおまけみたいな気分で脱力して鑑賞した。
シベリウスの最初の音で感じたこと。パリ管はもの凄く上手い・・ちょっと吃驚である。
前に聴いたときはここまでのインパクトはなかった。無能な評論家は「色彩豊か」とか書くだろうと想像しながら、「それは何色ですか?」と意地悪な質問をしたくなるどうでもいいことを考えた。
クラリネットの紳士がまだ黒髪だったころ、僕はまだ10代で、報われない恋愛の只中にいて、一生彼女を愛し続けることができると思い込んでいた。それは経験したことの無い幸福への期待だった。
「私の左側にいた、ほっそりとした手・・マリイは希望を持ちなさいと叫んだ。そしてローブの上から肩を抱きしめたいとムルソーは思ったのだった。」
罪人であることを理解したのは裁判所。処刑されるなら見物に集った人々の憎悪を望む。ムルソーは5発の弾丸を撃ち込んだ。ベルリオーズ「断頭台への行進」から血のような赤、対比対象をなすペンキのような緑を感じ取ったのだ。あれは上野の5階席2列目でまだ無骨にオケをドライブするバレンボイムだった。
そのあと、ビシュコフや何人かの指揮者だったように思うけれど記憶は薄く、愚かな恋と同じ。
僕は幻想以降本当の音楽を聴いていなかったのかもしれない。
ヤルヴィのアプローチは、他のオケと似たようなものだけれど、不思議なのはドイツのときの方が尖がって感じられ、パリでは優しい調べなのは想像とさかさま。ブレーメンでの第9合唱シーンで誰も表現していないような音が飛び出してきたり、フランクフルトのブルックナーやマーラーでも、良い意味で聴き手を裏切るサプライズ満載な構成にいちいち驚愕していたけれど、今回に限っていえば穏やかに流れるように進んでいく。ただヤルヴィもそれなりに遊び心をあちこちに取り込むが、それが極端に見えてこないということ。これは何故だろう。(そういえば、ピアニストは元気のあって上手な人。アンコールでプーランクらしき音楽を高速で演奏した。以上。)
しかもタイミングが良いのは、昨夜読み直していたので解りやすいと感じたのだけれど、常に不安と戦っているカフカと正反対の人格がムルソーと考えた。ナタリー・サロートは「不信の時代」の中で「異邦人」についてムルソーはいかにカフカ的人間から遠く、フランス伝統的小説の主人公に近いと指摘。二人の共通した見解として、正しいものと認めてもよい・・(昔読んだ新潮文庫解説の微かな記憶を参考にした)
この考えを当てはめるのはいささか突飛だけれど、協調性を重んじ明解な注釈を求めるゲルマン(カフカは違う国だけれど、ここではドイツのオケと考えた。)と、どちらかといえば個人の考えを優先させるラテン気質(パリ管)の違いを、ヤルヴィが見事に使い分けているように感じられた。
とにかくパリのメンバーは自由闊達に遊ぶ。ホルンやフルートが変化球を投じれば、横の奏者も負けじと反応する。それも一度や二度ではないから、音楽があらぬ方向に行ってしまうかと思いきやそんなことない。
ティンパニ奏者なんか自分のシーンを待ち構えているように見えたけれどルールは超越しない。抑制とは異なるのはジェスチュアが奇抜だから。つまり肉眼で確認するならバラバラでも目を閉じれば豊穣で安定したサウンドだけが脳に侵食してくる。そう考えるとマーラー5番終楽章の頭でフランクフルトの主席ホルンが指揮者の合図を待たないで音を出すことも、計算された演技だと気がつかされる。ところがパリの場合は、高潔にて軽妙洒脱。仮に同じ演技だったとしても言語の文化そのままに日常の生活臭漂う対話であり、感情のまま発せられるアドリブ。それは最も上手く機能している政教分離国家という現実とも関係がありそうだけれど、深く考えるのは止めておきます。
いずれにしても卓越した技術を維持しながら、彼らは光の及ばない固有の曖昧さの中に生きる指針を見出している。
カミユは、不条理を冷静さと明晰な態度で見つめる状況を「反抗」と定義した。固有の曖昧さが見え隠れする以上、オーケストラはサルトルの考えに近いでしょうし、なんとなく優位性を感じるけれど、個人ベースではいかがなものか?皆自由でありたい。カミユの本に書かれているように圧迫された個人は連帯を育み「無垢への郷愁」は、ここの場合はいずれは指揮者批判という形に高まるように思う。ところがヤルヴィとはお友達のように関係が良好に見える。そこが魅力であるけれど、果たしてこのままでいいのだろうか?と一抹の不安を感じたことも事実。かつて赤と緑に感じられたオケは印象派の画家のような境目の曖昧な彩りに思われた。
彼らのような生き方を学ぶ必要があるのではないでしょうか。不必要な社会のルールに何故我々は忠実であろうと努力し、無駄な時間に管理されなければならないのだろう。それでいて見返りは少ない。
そういえばオルガン付きは正面から聴くべき作品だと思った。大きく鳴り響いた。
後半は1階席の真ん中あたりに移動。