ハーディングのマーラー7番
「演奏会に行けなくなった」という知人から、チケットをお譲りいただきました。
貴重な時間が過せました。ありがとうございました。
11月9日(仏滅) 14時~
久しぶりの錦糸町。かつて広告代理店渉外の仕事をしていて、この近辺には当時のクライアントが数社あったから、比較的馴染みの場所でもある。あの時の機械系の小さな会社は誠実な人柄のご夫妻が経営していて、「こんにちは!」と訪ねてみれば事務所内はAMラジオ「TBSの役所広司こと大沢悠里がおとどけしました。大沢悠里のゆうゆうワイド!それでは皆さん、また明日!」色だけで味のしないお茶かネスカフェを飲みながら何度も社長と雑談し、結果が伴う確信は無かったけれど、大きな広告料を契約した。
あの頃は北口に巨大な空地があって、数年でお洒落で大きなホテルやコンサートホールが完成するとも知らなくて、華やかさと対極の寂れた街。夕暮れと共に赤や紫の小さなネオンが煌めき、食堂のウィンドウには埃だらけの蝋製サンプル、剥がれかかったA4コピーは秋になっているのに「冷やし中華はじめました」が冷たい北風にふかれてパタパタ揺れていた。
普段から、すみだトリフォニーに来ることがあまりないのですが、土曜日の午後13時30分、僕は駅北口の奇妙なオブジェの前に立っていた。九州に住んでいるブログ友達のF・Jさんが、かつて浅草隅田川沿いの某ビール会社屋上にある泡のオブジェを見ながら「金色の・・あれはなんだ?」・・・思いだし笑い。似ている。
街の景観にそぐわないというより完全に浮いた状態なのだから困ったもんだが、そう!これが錦糸町なのだ。
時間を潰して開演直前に入館は、トリフォニーはレセプション関係に問題があるからで、ロビーは狭いしゆったりと寛げるソファーがないし、さっさと自席に行くしか逃場がないから、だいたいの人はそうするでしょうが、演奏家が舞台上で練習している音を聴くことが嫌いなのです。あれは雑音だと思っていて、先日のパリ管はコントラバス奏者が音の確認をする程度だったし、春のミュンヘンPや以前聴いたドレスデン国立なんか完全に無音だったのでとても心地良いのだ。他の日本の団体がどうしているかわからないけれど、新日本と松本に関してだけは、マエストロ小澤がアメリカから雑音を持ち込んだ。
3階席センター。大きな編成の作品だけに素晴らしい音で鑑賞することができました。
デメリットとしては、傾斜があまりないので指揮者が見えづらい特徴があるけれど、あんまり気にならない。
さて、マーラー7番の実演初体験(たぶん)である。
個人的な話ですが、非常に精神的に危険な世界だったもんだから、インバル事件(過呼吸嘔吐)のようなことが起きたら大変と少しだけ気にしていたが、確かバルザック曰く「男性は女性に対して常に威厳に満ち力強く偉大である」(独りだったけれど) つまり男の子は強くなり、大袈裟な表現だけれど遂にマーラーを征服したのだった。
しかし、出だしから実に気持ちの悪いのは、独特の弦のリズムに半音ずれたホルンの旋律が入ってくるもんだから(Tさんのブログによればトロンボーンだったとのこと。既に忘却。)相当に不健全な印象で、例えば「目を閉じて食したものは濃厚な雲丹と信じていたのに、実は醤油をかけたプリンだった。」古の都市伝説の如し。それでも数分我慢すればいつまで経過しても改善されないような気だるさにも慣れてくる。そうなるとリラックスしながら作品と対峙できる。1楽章の第2主題に所属するのかな?ハープが奏でられる辺りから美しい音楽が継続する。ラッパのファンファーレがどこかで聴いたことがあるような感じがしたが再現芸術は先に進むからわからなくなった。それで帰宅してyoutubeで確認してみたら、ワーグナー「ワルキューレ1幕」トネリコの木に刺さったノートゥンクに視線が注がれるシーンに似ているような気がした。影響を受けていてもなんら不思議ではない。とにかく1楽章の中間部が最もマーラー的な雰囲気。他の曲で時々訪れる美しすぎる旋律は苦手だけれど、混沌とも没入とも理解できない行ったり来たりする波のような音楽は案外好きなのかもしれない。ここまで書きながら、いかに自分がマーラーを知らないでいるか証明しているみたいなのは、ハーディングの何が素晴らしくて何が駄目なのか本当の知識がない訳で、明確に答えられるのは普段の新日フィルより遥かに良い音で鳴っていることだけ。脱力したN響なんかより技術があって高貴な世界。
2楽章~4楽章までの大半は目を閉じて鑑賞した。そうしたらオケも聴衆も集団催眠にかかり暗闇に向かって行進しているような奇怪な気分になってきた。
「おたくら列を作りどこに行こうとしているの?」周囲の声も耳に入らない。
誰かが言う「仕事や学校や家族なんかどうでもいい!私の後についてきなさい。皆で協力しあいましょう。山の頂に希望があります。」 「そうだ山頂を目指せ!希望だ!」
ところが5番6番みたいに劇的な展開があるわけでもないので、時計のようにグルグル同じ場所を回って、あるタイミングで指導者が「海へ!」 「そうだ海だ!」
それから目を閉じていたら、身体にある種の変化・・新陳代謝がおかしくなったのか、汗が止まらなくなってしまった。おでこからなにから滝のように汗が流れた。それは5楽章の躁状態音楽に突入してからようやく治まった。
それだけの理由でやたら明るい終楽章が忘れがたい・・これをマーラー効果という。
ハーディングの指導力はそうとうに高いものだと理解しました。素直にオケの音が証明しているけれど、構築が論理的でどこを輪切りにしても破綻が生じていないように聴こえてきた。ようするに退廃していないのだ。もっと濃厚な音楽を求めている人もいると思うが、無駄が削がれ洗練に磨きがかかった2013年が嘆き節を拒絶している。
演奏は皆に衝撃を与えたようで「凄かったね。」と会話している人たちが大勢いましたし、僕だって同じような感想を持った。皆がハーディングを求めている。
Wikiで7番見たら「経過にも帰結においても必然性がない」という説が書かれていて、「グルグル同じ場所回って集団自殺」よりは美しい纏め方、上手い表現と感じた。それからワルキューレ云々とも書かれていたので、あながち間違えでもないみたいです。
それで調の問題やら、構成力、読解の難しさ等が記されていて、ポストモダンに繋がる音楽性を提唱している評論家もいるそうですが、僕にとってはそこまで飛躍したものだとは感じられなかった。シェーンベルク達の気づきに多少は関係しているだろうけれど、最初から別の道を歩いているのではなかろうかと思うのです。
線路は交わらないもので、総武線は総武線でありどこまで進んでも中央線にはなれない。それでも中央線になりたいのなら始発駅まで戻らなければならない。自分でも何を書いているのか?だけれど、変化したいなら覚悟が必要ということだ。7番から覚悟は感じられない。どちらかというと未練たらたらの音楽じゃないでしょうか。
そういえば音楽は異なるし知識もないけれど、アルブレヒトの指揮でシュレーカーの「烙印を押された人々」を観たとき似たような感想を持ったのだった。全てを放棄したくなるような絶望といったら極端でしょうか。
7番が最も人気がないというけれど、もしかしたら11のシンフォニーの中で最も好きな曲かもしれません。或いは10番か。勿論その日の気分にもよるでしょうが、構成的じゃない作風は想像力が研ぎ澄まされる。
冒頭がトロンボーンだったのか、どうしても思い出せない。別にどっちでもいいのですが、間違っていたとしたら偽装にあらず悪意のない誤表示。ほどほどにご理解願いたい。
終演後、駅前でエスプレッソ休憩。KさんとTさんにお礼のメール送信。
気分転換にお散歩したら、かつての墨田区の光景。
あのクライアントも存在していた。社長元気かな?
ちなみに広告代理店は倒産した。僕はその直前に退社して、今の仕事を始めた。
疲れたな。半分眠りながら直通逗子行きの人となりました。車中また汗が流れてきた。パタパタとチラシを団扇がわりにした。
昼間パンフレット読んでみたら、もの凄いクサイ文章。なんだこれ?最悪のプログラムノートである。
「あなたはいまGマーラーの7番目の交響曲を聴こうとしている。さあ、くつろいで・・・時間のディメンションは細分され・・・断片的な時間しか・・」あれ、こういう文章最近どこかで読んだな?と思ったら、<青澤○明>
F・Jさんが間違って購入した「現代のピアニスト30-アリアと変奏」の著者である。
「さあ、くつろいで」って、お前は馬鹿か!余計なお世話である。
この人のブログ見ると笑える。
「コーヒー2杯分の、ビター・スウィート、きっとあります。」・・(珈琲好きをあまく見るな!)
「口ずさむのはあの歌で、それはいつも変わらない。電車に乗り遅れて、それでも次の電車がくることを待ちながら、挨拶の言葉を考えているのです。”Good morning” 」・・(生まれてきてごめんなさいって言え!)
新日本フィルに言いたい!もっとまともなライターを雇いなさいって!