アバドのこと

 アバドの追悼文章を沢山見かけるので、ずいぶん愛された人だったのだなと思った。
 僕は薄っぺらい感性しか持ち合わせていないし、それ以上に決定的な舞台にギリギリで遭遇しない場合が多い。特にここ数年は、指揮者キャンセル、歌手変更、公演中止を当り前のように何度も経験。先日ようやく小澤さんを体験できたけれど、考えてみれば聴きたいからチケットを購入しているわけで、生身の人間のことゆえ仕方がないと思いつつ、夢やぶれたときの落胆は大きく、その度に立ち直りに数日必要となる。
 それでアバドなのですが、PC上で色々な記事を読んでみて、どうやら世間で評価されている芸術性を感じることができないまんま逝ってしまったと気がついた。
 今朝方medici.tvからメールがきていた。なにかと思ったら、2010年ルツェルンでの「マーラー9番」動画が配信されているお知らせだった。それで聴いてみたら素晴らしい演奏!驚いてしまい色々考えたわけ。
 僕がアバドを最初に聴いたのはFM放送のスカラ座公演。「ボッカネグラ」・「セビリアの理髪師」それとヴェルディ「レクイエム」で、良い演奏かどうか理解できないまま、録音したカセットテープをぶっ壊れるまで繰り返し聴いたのでした。(今思えばかなり凄い演奏だと思う。) 当時は収入の手段を持ち合わせていない未成年だからカセットが音楽の命綱みたいなもので、ロンドン響と来日した際のマーラー(たしか?1番と5番)も録音したな・・・なんか思い出してきたのですが、あれがきっかけでマーラーが苦手になったような気がする。なんだか不健全で内向的な響きのうねうねした音楽にしか聴こえなくて「ブラボー!」と叫びまくるお客にも嫌悪感。それからそっち方面の音楽を聴きたくなくなった。
 今回棚を整理しながら、自分がアバドの何を実演で体験したのか調べたら、なんとオペラしか聴いていないことが判明した。しかも、チケットを購入したのは歌目的でアバドの存在は単なる伴奏者扱い。当時はその程度の知識しか持っていなかった。なんだか昨秋の公演中止が非常に残念。
 日本で指揮したロッシーニやベルクは良い演奏だったと思うけれど、なにも舞台に限らずものごとは時間が経過すれば忘却するし、いつまでも余韻に浸るくらいなら新しい出会いを求めていたい。
 写真はウィーン国立歌劇場での「ローエングリン」今気がついたのだけれど、25.jannerって今日?共時性だ。
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 ドミンゴ以外誰が出演していたのか忘れていましたが「ふ~ん」シュトゥーダーやロイドの名前。 
 この舞台こそ、今のところ我が最悪のローエングリン上演。ドミンゴが調子悪くて、決定的な瞬間は聴かせどころ「遥かな国に」で訪れた。もう声が出なくて・・音程もテンポもなにもなくなり、仕方がなくヘロヘロの主人公にマエストロが合わせはじめた。洒落にもならないが、結果アバドによってローエングリンが救済され音楽が崩壊した。録画用のライトが煌々とオケと指揮者を照らし情緒もなにもない。つまらない演出。何故か会場はスタンディングでの喝采
 これは別の年ですが、ムソルグスキーの「ホヴァンシチーナ」
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 ギャウロフ、アトラントフ、ポポフ、リポフシェク等々。とんでもないオールスターキャストなのだけれど、このときは未来を模索しない気ままな旅で、いくら音楽が好きでもムソルグスキーなんて有名な2曲以外知らない状態。
 何気なくチケット売場に行ったら一枚だけチケットが残っていて運命と感じて買った。たぶん素晴らしい演奏だったと思う。だいたい若き初心者に莫大な投資を促し「ホヴァンシチーナ」とか(「ランスへの旅」は楽しいけれど)「ヴォツェック」とか、名曲だかなんだか判らないシューベルトのオペラとか、どう考えても我慢しながら過酷な登山しているようなものである。
 ここまでの体験を通して、アバドを好きになる要素と適合性に祝福されないまま年齢を重ねていくのだが、最後に聴いたものも調べてみればえらく昔の話で、2000年にベルリンフィルと来日したときの「トリスタンとイゾルデ」あれは東京文化会館ローエングリンから10年経過、僕はワーグナー全てのオペラの旋律を隅々まで記憶した青年になっていた。しかしながら感動の伴わないとてもとても長い交響曲を聴かされた感覚で、早く終わればいいと思ってしまった。癌の手術をした後で様々なマエストロなりの思いが反映していただろうし、まして醸し出した精神主義のような信念に異を唱えるつもりもないが、音楽の特にオペラの場合は様々な形で携わる人々の事情が露呈する可能性が高いと思う。その場で最善の策を見つけ出すのは難しいかもしれないけれど、どこか作品に対して余白というか、寛大な気持ちが必要な気がしてならない。おおまかな感想として社会性の欠落?何故無関心でいられるのか不思議に思われた。せっかくのトリスタンだったのに、作品の中に意識が入る術を獲得できなかった。たぶん鑑賞能力に問題があるのでしょう。ベルリンフィルは素晴らしい演奏だった。あれ?歌手はポラスキー以外記憶にない。相反するけれど、とても倫理的な社会を構築しているように見えた。何故かな?
 いずれにしても、それから僕はアバドを拒否した。つまり14年間にわたる空白。
 
 今だったら何となく理解できるのだけれど、アバドはそうとうに頑固な人で、こと音楽に関しては絶対に自分の考えを貫き通すタイプなのだと思う。
 検索していたら、ピアニストのグリモーとモーツァルト23番の協奏曲カデンツァで、いわゆる芸術上の問題。グリモーはブゾーニカデンツァを主張。でもマエストロはモーツァルトカデンツァじゃなければ駄目だそうです。そんなの彼女の自由でピアニストの権利、ブゾーニでいいじゃないと僕は思う。・・・代役はルプー、ロンドンでは内田光子さんだったそうです。しかしグリモーも頑固で魅力的だな。
 つまり、トリスタンで感じた「人々の事情を考慮しない」感覚はもしかしたらそこそこ当たっていて、オペラは勿論、ベルリンで残した仕事はきっと素晴らしいだろうけれど、最終的にルツェルンに落ち着いたのは、より自由に好きな音楽のみを追求する場を求めた結果だったのではないでしょうか。
 人間て、税金や年金や保険料払ったり、嫌でも会わなければならない人がいたり、いがいに面倒な手続きが多い。(貧相な例えだな・)でもそういう条件や仕組みを放棄する環境生き方があってもいいのかもしれない。
 
 21世紀は間違いなく個人の資質が問われる時代で、時計が進めばラトルの後継者は誰だ?とか話題になると思うけれど、昔ほどの権威はない。その兆候がチラホラ感じられるのは例えばハーディング。アバドの影響を最も受けた指揮者だと感じるけれど、本質的には逆でアバドが彼から生きる指針を見出していたのかもしれない。
 いつだって新しい人が時代を作るものでしょう。
 
 配信されているマーラー9番は、かつて感じた倫理的社会の構築やら人間関係の濁りとは最初から無縁で、どこか達観した稀有な世界。アダージョで徐々に会場を暗くする。どうして余計なことするのかな。
 でも、生で聴いたら確実に泣くと思う。
 
 最後に一文。ベルクのCDにサインをもらったときの優しい笑顔。バレンボイムの演奏会(ピアノ)のとき、安堵の表情でムローヴァ女史と一緒に鑑賞されていた姿。忘れられない。
 合掌。