「Before Midnight」と共感覚。そしてテミルカーノフ。

 1/28 桜木町で映画鑑賞。駅近くに新しい劇場ができたというが、車窓から無造作に乱立するビルが視界に入ると急に気持ちが重くなり引き帰そうかと暫し考え込んでしまった。
 かつてこの街の片隅から仕事を頂戴していた。あの頃は社会の変化にどうにか対応していたけれど、何時からか虚無で知性の欠片も感じさせない愚かな街並みに嫌気がさした。構造の責任なのか、人々の目的意識が希薄なのか、或いは両方かもしれないけれど、誰かが常に誰かを探していると気がつき、どうにもこうにも落ち着かない。その大半は金銭と生理的欲求の捌け口だとはっきりと見え、立派な高層ビル群は近い将来、ここに文明が存在したことを教える墓標になるのでしょう。
 映画館のあるビル。煩いBGMのなか鑑賞時間の予約。長い待ち時間にくらくらした。
 時々建物から飛び降り自殺する人がニュースになるけれど、なにも理由の全てが人間関係や借金苦等と限らないのは、横浜が日本が社会が死ぬ仕組みを作り上げている。
 
 「Befor Midnight」 リンクレイター監督 主演ジュリー・デルピー/イーサン・ホーク 脚本はこの3人によるもの。
 この映画は「Befor Sunrise」と「Bifor Sunset」の続編。
 以下これまでの簡単なあらすじ
 1作目。20代の男女2人が電車のなかで偶然出会う。ウィーンで下車。翌朝の別れまでがドラマの全て。ほぼ会話だけで構成されている。甘く切ない物語。
 2作目。ウィーンから9年後、2人はパリで再会。変化、苦悩する人生。(役者は成長した。)前作以上に残された時間は少なく、約1時間30分程度。溝を埋めるように時間が加速する。
 そして今回はパリから9年後の夏。ロケ地はギリシア。2人は40代になった。
 観て良かったと思えるのは、面白かったからだけではなく、役者としてのレベルが驚くほど高度で、愛の表現だろうが喧嘩だろうが言葉が隙間なく展開される知的快楽。1カメの1カットが10分以上は継続する。答えの出ない生々しいやり取りは辛いけれど、他の登場人物含め性に対して奔放な台詞は生命の証であり、彼らは出会った頃と本質的に変化していないことがわかる。つまり年齢を重ねるって美しいもの。
 しかしこんな映画を鑑賞してしまうと、日常のテレビドラマなんて馬鹿らしくて観ていられないのは、同レベルの俳優は日本にはいない。絶望的なレベルの格差。能力のないアイドルばかりのテレビドラマは見ないほうが良いと思った。
 しかし、空いている。というか、左前の方に女性がひとり。これもまた現実。
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 始まる前に長々と宣伝が続くことに疲労。どうにかならないものでしょうか。
 
 帰宅して友人から提供いただいたシュトックハウゼンをPCで流した。これについては簡単に解決できない世界ですし、そのうち自分なりの考えを書きたい。飛躍するけれど、初期の作品を聴きながら、ある文章を読んでいたら「共感覚」という語に目がとまった。
 それは音を聞いたり文字を見ると色を感じるとか、文字が立体的に見えるとか、日常一般の知覚と異なる認識を脳が伝達する現象をさす。理屈としては随分前からそういうものが存在すると知ってはいたけれど、考えようによっては共感覚の持ち主と互いに確認作業を行わなければ、本人だって能力に気がつかないと思ったのです。
 なんでこんな話になったかというと、家人が現代芸術を嫌う傾向があって、特にライヒのようなミニマル系の音楽と、極度に細かな点描の絵画でも同じような拒絶反応を持っている。点描といってもスーラとかは関係ないそうで、アンリ・ミショーが麻薬を服用してペンで描いたようなクレイジーなものとのこと。
 実は、これらは僕にとって好きな部類の作品群に所属する。この程度のことでイーサンとジュリーのような喧嘩にはならないけれど、深夜珈琲を啜りながら互いの感覚についての話題になった。そしてどうやら「あなたは共感覚者」だと結論付けられた。ところが僕は音から色が見えはしない。ただ決定的だったのは数字に対しての思考。
 僕は文章を縦書きに書く癖があって、今でもだいたい手紙は縦書き。ブログのお蔭で大分横に慣れた。そして数字に関しても巷で誰もが書くように例えば「1234567・・」と記しているが、本来僕の脳の片隅で何が起こっているかというと、書き辛く難しいが「・・・7654321」と数字は右側からスタートするものだと思い込んできた。
 細かな説明は端折りますが、1から始まった数字は途中から右に曲がり、更に途中から右に・・つまり立体的に螺旋状を描いて無限の彼方に姿を消す。ところが相反する意識もあって、スポーツ観戦をしているとき生理的に左回りの競技に心地よさを感じる。左回りとは野球とか陸上とかだいたいが左回りだと思うのだけれど、時々競馬等の例もあるから具合が悪い。そしてこれまた相反するが時計の右回りが苦手で、理由は解らないが僕は腕時計を使用したことがない。でも逆さまから見れば逆回転だから、1以前の0.1等の数字は左回りに上昇する。
 数字以外にも変人扱いされること多々。別に知覚なんぞは人それぞれと思った。
 他には関係性があるのか不確かだけれど、ごく稀に音から臭いを感じ取ることがある。
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 1/29 テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルクPの演奏会(サントリーホール)に出かけた。
 カンチェリ「アル・ニエンテ(・・無へ)」ユーリ・テミルカーノフに捧げられた秘曲
 アンコールは「愛の挨拶」と「プルチネルラ」から
 カンチェリは期待していたほどの曲ではなかったけれど、俗っぽい旋律がチラリとハープやピアノで奏でられ、時に強烈なタンバリンで就寝中の住民も目を覚ます。革命的な音楽ではない。どちらかというと穏やかな世界。例えばタルコフスキー「鏡」辺りの登場人物が自宅の中に降る雨に濡れながらも実際は牧歌的な生活を営み、知らず知らずのうちに不治の病に感染し、気がついたら入院させられていて、生と死の狭間の中いつしか見舞いの顔も曖昧となり、気がつけば一定のリズムを刻む点滴の音だけが耐震装置の備わっていない古い病棟にポトリポトリと静かに響く。主人公は薄れゆく意識の中で「これは点滴の音だろうか、それとも鼓動なのか」その後、ショスタコーヴィッチの最後の交響曲みたいにパタリと終焉を迎える。
 チャイコフスキー4番は素晴らしい演奏。オーケストラが上手いのは今更書くまでもない。テミルカーノフは抑制の美学とでも表現したらいいでしょうか。それでも豪快な音は古のレニングラードに同じだけれど、慈愛に満ちた世界は煩く聞えてこない。夏にフランスの音楽祭動画が配信されていて「シェヘラザード」とブラームス。あれも良かった。棘のある演奏は苦手だ。
 カラヤンバーンスタイン時代の自己中心的でやたら大袈裟なスタイルが形式上の置き土産だったとしたら、対極の存在がテミルカーノフ。「愛の挨拶」を聴きながら、ソビエト時代の呪縛(或いは郷愁)からいち早く開放の手続きに成功したのは、この団体だと思われてきた。
 今回は沢山のプログラムがあったけれど、カンチェリとチャイコフスキーは正しい判断だったかもしれません。