名曲のたのしみ モーツァルト
注文していた遠近両用眼鏡が完成した。
かけてみて感じたのは、つい数秒前までもの凄く不自由な生活をしていたのだな。それとわりと似合う。
元々僕は遠くの物が良く見える体質で周囲からは「老眼が早く来るよ」と言われ続けていた。
今回の検査で判明した視力は1.5楽々だったから、そこから先は検査しなかったけれど、新聞や文庫本が読めないのも当たり前なのだと痛感した。
テーマはモーツァルト。
初日は出かけていたので友人に録音していただきファイル便で送信してもらった。あとはリアルタイムで聴けた。そんなこんなで眼鏡屋さんから急いで帰宅した午後13時45分はとにかく猛暑。
番組は「三大交響曲39・40・41聞き比べ」「歌姫」「室内楽」「ピアノ」という構成で、70年代80年代に活躍した演奏家を中心に名演が披露されたが、誰の何が素晴らしいとかそういう話ではなくて、やっぱり色々考えさせられた。
美しいとか力強いとか遅い早いは誰でも分かること。その先も少し真面目に考えればそれらしい意見として纏まるもの。ところが真実がそれより先にあるとしたら、たかがCD一枚かもしれないけれど、芸術とは簡単には解決できない(或いは解決させてはいけない)大きな核が存在しているように思えてならない。
今日の番組では、二短調の暗い中から情熱を見出す稀有な音楽K466に対して「シンコペーションが下からの何度も上がってきては壁にぶつかり、それでも突破しようとする切迫した呼吸」と表現されたり、「明るく調和した優美なものばかりではなく、デモーニッシュな」一面もモーツァルトと言葉にされ、自分の感受できない愚かさを指摘されたような気分になり暫くの間動揺してしまった。
どうしてこの作品には作曲家自身のカデンツァが残されていないのだろうと昔から思っていたが、先生は「残っていればどんなによかったか」とスパッと切り捨て、結局のところ思考は我々に向けられ、知的な遊戯だろうが何となくはぐらかされた気持ちになる。この感覚は読後と一緒で一見解りやすいように見えて、数ある評論家の中で最も難しい文章の一つに所属すると思えてならない。
ピアノ独奏用のロンドK511。僕の好きな作品。小雨の誰もいない鎌倉をイヤホンで聴きながら散歩すると切ない気持ちになる。先生は「哀愁が漂うほのかな光が見える。そんな弾き方をしないと命が表現できない」
昨日、番組中に電話が鳴った。生きる為に出なければならない急を要する重要な伝達事項。
しかたがない。アルバンベルク四重奏のボリュームを下げて社会の成員としての常識的な応対。
一回で話が通じない。何故?プレゼンテーションには自信があるのだけれど。
電話を切ったのは15時10分。
「K482って何でしたっけ?」
「・・・・」
ラジオのスイッチをそのままオフにして、冷めた珈琲を飲んだ。
夕方から夜にかけて奇妙なより戻し。起きているのか寝ているのか理解できないままメフィストフェレス的な幻覚を見た。