アヴデーエワのリサイタル

 人生が悲劇と喜劇に分類されるとしたらアヴデーエワは前者に所属するように思われた。
 彼女にはドメスティックとは無縁な謎めいた魅力がある。
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 モーツァルト ピアノソナタ6番K284「デュルニッツ」
 リスト/ヴェルディ 「アイーダ」から<神前の踊りと終幕の二重唱>
 リスト 巡礼の年第2年「イタリア」から<ダンテを読んで>
 アンコールでノクターンマズルカ2曲。
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 ブログと対峙するのも久しぶりです。というのも、ここ2週間ほど文章が書けない精神状態が続いていて仕事以外の時間は何もしないで過していた。何もしないというのは食事や睡眠等の生きる手続きは本能的に受け入れつつ、文化的な或いは娯楽的な、つまり放棄しても困らないことが非常に希薄だったということ。
 ただ、思い返せば御茶ノ水に行ったついでに岩波で佐々木昭一郎の映画をもう一度観たり(半分以上寝てしまった。)珈琲飲みながら友人から送信いただいた「ナクソス島のアリアドネ」を聴いてはいた。そうだ!僕は映画の前にお腹が空いていて駿台下のエチオピアで辛さ10倍のカレーを食べたのだった。これまでせいぜい5倍の人生だったけれど、毎回もう少し辛くてもいいと感じていて「10倍」と注文したら、海老の味が全く感じられない辛さになると学習したのだった。
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 秋は急ぎ足。思考が追いつかず開演時間に間に合う確信も持てなかったがアヴデーエワがわざわざ鎌倉まで来てくれるのだから、どうにかしなければと重い腰をあげたのでした。
 昨晩Eテレジークハルト指揮のN響と共演したモーツァルト21番の協奏曲を放送していて、予習じゃないけれど聴いてみたら個人的好みのアマデウスと異なった演奏で(言葉で説明するのが難しいな)淡白なスタイルであるにもかかわらず、くどくどと音楽について説明された印象。もう少し素直な表現になれないのかな?若干ストレスを覚えたのはユリアンナのせいじゃなくて面白くもなんともないジークハルト?またはNHK特有のホールの響きを無視したような分裂した録音問題かもしれない。ただアンコールで演奏されたマズルカの躍動する素晴らしさ!これは実演じゃなければ理解できないと考えた。
 それで演奏会を聴いてみれば、モーツァルト6番(個人的に数ある神童のソナタの中で最もどうでもいい作品)でまったく同じような気持ちに導かれたから完璧な演奏であるにもかかわらず彼女の解釈と僕の好みには大きな開きがあるみたい。
 ところがリストとショパンは吃驚するくらいの名演!この飛躍はなんだろう?最初から最後まで楽譜も見ずに(置いていない)鍵盤も見ずに、指先から放たれる響きは骨格が見えるような線の細さだが確信に満ちた打弦の強さ。シルバーグレーの衣装に包まれた肉体が腰の部分で「く」の字に曲がりそのまま背筋はピンと頭部に繋がり顎を前に突き出し遠くを見つめるように何かを追いかける。ミスタッチとは無縁。リストとショパンは彼女の手中にある。
 ふと思ったのは、アヴデーエワリヒテルやベルマンなんかと同じロシアの演奏家であり、島国の住人には理解の及ばない大きな枠組みの中で戦っている孤独な音楽家だと気がつかされたこと。それとショパン前奏曲での間の取り方、たびたび訪れる余韻を打ち消すような攻撃的なアプローチから、考えすぎかもしれないけれど異性を愛せない体質なのではないかと想像した。音楽に艶やかな潤いがあり、形容困難だけれど現状を打破したいと願う屈折した哀しみが見え隠れするように感じられ、時々聴いていることが辛くなる。
 川崎公演だったか、プロコフィエフはとんでもない演奏になることでしょう。
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 ちょうど聴いてみたいと思っていたブリュッヘン18世紀オーケストラと共演したショパン協奏曲のCDが販売されていたので入手した。1849年製のエラール・ピアノでのレコーディング。巨匠の訃報を思うとこの企画が実現したことに感謝しないではいられない。現代のピアノみたいに響かないから陰影には乏しいが、都度減退する音色が美しくも儚い。