エレーヌ・グリモーのリサイタル

 5/16をエレーヌの日と命名したい。
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 金土日と仕事が忙しく疲労の極限だったのですが、僕は彼女に会うため初台に向かった。
 発売中の新譜「ウォーター」を見かけるたびに購入しようか悩んでいたのは、実演が聴けるのにCDなんかでおかしな先入観を持ってしまう懸念があったからですが、どうやらその考えは正解だった。
 あとからプログラム読んでみたら「毎回毎回その時点でしかできない音楽を求め表現したい」と記されていた。
 録音を聴くとしたら確認作業程度の気分が具合いいのかもしれない。
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 前半のプログラム、当初はラヴェルから始まり武満で終わる予定だったけれど上記の順番に変更されていた。
 思えばCDタイトルのままに水に関する作品ばかりなのですが、あまり理屈を考えずにありのまま音楽を体感しようと、難しいけれど可能な限り無の境地を目指して精神集中。椅子に腰掛けてから15分ほど目を閉じ開演を待ちました。今回は奮発して前から7列目のど真ん中。
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 照明が暗くなりグリモーが登場。丁寧にお辞儀をして暫しの沈黙。そしてベリオ。
 ちょいと脱線しますが、前日テレビを点けたらPヤルヴィとブニアティシヴィリシューマン協奏曲を放送していて、以前同じコンビのフランクフルトライヴをラジオで聴いてミスタッチの多さ、特に終楽章が気になったことがあった。そいつを今回はN響だったわけですが、動画だから印象も異なるかなと思い見ていたら、やっぱり沢山ミスをしていた。人気のブニアティシヴィリに対して素人の僕が技術的なことをとやかく指摘するつもりは無いのですが、映像の印象としてある種の乱雑さ道徳的な緩みのような油断がミスを増発させている感じを受けた。ファンを敵にまわす可能性大ですが、一生懸命演奏しての間違いじゃない雰囲気。(あくまで整った状態にしておくべきものが乱れているイメージだから雑然とは異なる。)例えば一見素敵な異性と出会ったとして男は本能的に求めるだろうが、なにかのタイミングで清楚なイメージを覆される瞬間を発見することがある。自分でも混乱しますが、その時点で意識は理想から遠ざかり気だるく取り返しのつかない朝を迎えている。つまり何が言いたいかというと世の中には逆のパターンも存在するわけで、人生と書くと大袈裟かもしれないけれど思いがけない速度で喜びや悲しみに翻弄され出会いと別れを繰り返す。
 たしかドストエフスキーの著作のどこかに笑顔に関する表記があって正確なことが思い出せませんが、大作家の判断基準になっているのだなと思ったことがありました。しかも美しい文章で。
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 それでグリモー。少なからず僕が知らない全く出会ったことのないタイプ。(つまり上記に該当せず。)
 言葉も交わさず演奏しか聴いていないから真相は謎だけれど絶対に普通の人ではないと思った。
 表層的には美しくメリハリのある音作りでミスがない。しかしそれだけではない。
 ちょうど1ヶ月前にブッフビンダー、演奏というよりベートーヴェンそのものを体感し職人気質をあからさまにぶつけられた感覚に酔い心の底から満足した。ところが今回、音楽は芸術表現の一つにほかならないけれど「現実とは異なる世界を繋ぐ架け橋」であると教えられた気持ち。ルプーでは過去の自分と対峙した奇妙な感覚を覚えたが、グリモーの場合は時間軸をも拒絶しそこには過去も未来もなく更にエゴすら感じられない。つまり良い意味で彼女の音楽は<音楽ではない>既に巨匠を凌駕?そうじゃない。相手にしていない?或いは最初から見据えた対象が異なる。このピアニストは何を感じ何処に行こうとしているのだろう。死ぬことを恐れていない。それだけはわかる。
 ベリオの後、独特の緊張感が会場全体を支配。そのまま武満「雨の樹」・・好きな曲で個人的に忘れられない思い出とリンクしているのだけれど、もう個々の音楽がどうこういう話ではなく、互いに連絡のない難曲の集合体が組曲のように奏でられ、当たり前かもしれないけれど楽譜も見ずに約50分間、恐らくどの作曲家も想像すらできなかった稀有な世界が表現された。拍手も咳払いもできない。僕たちは恵まれた客層の只中にいると実感した。
 休憩時間、ロビーを歩きながら「誰も知り合いがいないな」・・バーカウンターに置いてあった水で安定剤服用。
 本当は発売当初笑顔の魅力的な女性を誘っていたのだ。仕方がない今日は独り。(そういえば全然興味ないけれど近くの席にクリスティアン・ヤルヴィ。初めて見た。ジョン・トラボルタを若くした感じ。)
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 後半。傷ついた者は必ずブラームスに直面する。ソナタ2番。
抑えがたい愛憎の感情。それでも哀しいだけではなく、特に第1楽章出だしの速度と和音から何となく経験した事が無い出来事への期待が感じられる。ただどうしようもないのは、この曲を聴くたびに息が苦しくなる。
 たぶん評論家さんはブラームスでは独立した世界観だったを主張するように勝手ながら想像するけれど、2日経過した今舞台を振り返ると前半の延長線上に位置する表現だったのではと思う。激しいアプローチは作品ならではものだけれど、心理描写が「ある事柄が変えられないところまで進んでいる」と考えれば、全てが同じであることが分かる。・・・・以下、書くことに疲れてきたので端折ります・・限界。
 圧倒的な演奏。主題が鳴るたびに胸が絞めつけられるような気分。終楽章再現部では涙が出そうになった。
 感動した。
 
 
 最近なんでもかんでも集中しすぎて直ぐにダウンしてしまうのです。正直帰宅も困難でどこか近くのホテルに宿泊したいと思ったが、最終の新宿ライナーにギリギリで乗車。
 エレーヌはステージマナーが美しい。アンコールは無くていいと思ったが3曲演奏した。
 まさかのラフマニノフ・・実はあんまり聴きたくない種類の音楽でしたが、演奏会の流れは壊れなかった。
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 疲労のあまり席を立てずにいて、気がついたらホールから誰もいなくなっていた。
 外に出てからも暫くベンチに腰掛けていた。そして缶珈琲を飲もうとしたら地震が起こった。
 

 実は翌火曜日も演奏会に出かけてきた。
 トリフォニーで昨年舞台をご一緒した友人の演奏会。感想はまた後日。
 そして今夜はオーチャードでグリモー再び。協奏曲の夕べ。