ウィーン国立歌劇場「メデア」4月15日

 自宅を出てから24時間、くたくたになりながらHotel Kummerにチェックイン。
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 ミッテからUバーンで直通のノイバウガッセ駅真上にある宿は100年以上の歴史があるそうで、入口には誇らしげにマークが付いていたが、なぜかドアノブに「引」の文字。反対側を確認すれば当たり前だけれど「押」だったから「日本人多いのかな?」・・でも実際にはホテルはおろかノイバウガッセ周辺でそれらしき人を発見することは一度もなかった。
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 フロントの若い男性はちょっと苦手なタイプでしたが、客室係りの女性もレストランスタッフも程よい距離感が好ましく居心地は悪くなかった。
 後日気がついたのは建物の壁面にヨーゼフ・シュトラウスのプレート、どうやらここにいたみたい。
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 ただ大失敗をしたのは処方されている薬の一部を忘れてしまったことで、最初の2日間は疲労も極限状態。夜の舞台に備え必要以上の行動はできなかった。
 翌日14時頃まで寝てから予約していたチケット受け取りに劇場まで行くも、聖金曜日で窓口はお休み。脳の回転もおかしくなっていたみたい。
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 この時に目撃したのが↑の情景なのですが「ザッハー」に行列(驚)
 しかも滞在中毎日のように大勢並んでいたから、サービススタッフとケーキ職人さんお疲れ様です。
 それからケルントナー通りには中国語の富裕層が多く、モーツァルトのかっこうした怪しいチケット売りのターゲットになっている。僕も話しかけられたけれど「明日はメデア、その次はパルジファル。」と答えれば、「本当のオペラ好きなんだね。」と苦笑い。(帰国してから思うに、あの商売・・僕できるかもしれない。集団でやってくるオバサンとかに言葉巧みに語りかけ10枚くらいまとめて売る自信有。)
 仕事といえば、詳細は面倒だから書きませんが、就労ビザ含めて解決してくださる職場を発見してしまった。
 決断は本人しだいだけれど、日本での生活に嫌気がさしている状況を鑑み、半分位その気になっている。
 或いはブロンドのブルジョワ美女を探しだし結婚するか。
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 その後ナッシュマルクトまで歩き遅すぎるお昼ご飯はビール(美味しい!)とシーフード。
 満たされない部分は試食のふりをしながら幾つかのお店で生ハム、チーズ、ピクルス等。
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 15(土)国立オペラでライマン歌劇「メデア」
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 Dirigent Michael Boder
 Regie und Licht Marco Arturo Marelli
 Bühne Marco Arturo Marelli
 Kostüme Dagmar Niefind
 
 Medea Claudia Barainsky
 Kreusa Stephanie Houtzeel
 Gora Monika Bohinec
 Kreon Norbert Ernst
 Jason Adrian Eröd
 Herold Daichi Fujiki
 チケット代金ケチったがためにサイドからの角度に腰痛悪化。舞台は正面がいい。
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 お話を超シンプルに説明するならば
 <旦那から離婚をせまられたメデアが旦那の新しい花嫁と父親、挙句の果てに自分の子供2人をも殺害して立ち去る>・・・この女は全てを破壊する。ギリシア悲劇のポジションとしてはかなり有名。
 200年位前にグリルパルツァーが纏め上げたものに触発されたライマンがオペラとして完成させた。
 劇作家はとりあえず成功を収めたが悲惨な境遇で、弟が入水自殺、精神錯乱で母親が自殺、従兄弟の妻との不倫関係で大変なことになる。この時期同時に「サッフォー」や「金羊皮」(つまりメデア)創作意欲には驚かされる。晩年にブルクの支配人?権威ある要職につくも独身のまま亡くなった。 
 ここ数年、美しい音楽や絵画に接すると気持ちが悪くなり場合によっては身体の柔らかい部分に蕁麻疹。アレルギーのお薬が欠かせない。それでも寂しくなればアートを求める。
 ライマンの音楽には心理学でいうところの転移?内面そのままの感情が見え隠れし、最初は刺激的だけれど、いつしか安堵しながら身を委ね、大袈裟かもしれないけれど残された時間について考察、まだ僕は生きている。
 https://www.youtube.com/watch?v=vEygCXSOhkw 参考まで、フランクフルトでのハイライト映像は同じ演出。
 人間の本性なんぞ最初から存在していなくて、サルトルの「実存は本質に先立つ」ことが分かる。
 ボーヴォアールの「女に生まれるのではなく、女になる。」なんてメデアそのもの。
 つまり本質を定義する神様なんて存在していない・・聖金曜日イースターに挟まれた時空の中で不謹慎な感情であろうか。
 ブログでは政治宗教について書かないを主軸にしているから、これ以上の表白は避けたいが、人により作られた社会に育まれ人は信仰なる本質を見出す。
 舞台上の出来事、メデアはかなり激しい演技。これは演出の関係なのか歌手Claudia Barainskyがそういう表現したいのか判断が難しかったけれど、ぼんやりとセネカを想起。
 2人の子供がメデアから分離された瞬間に直ぐ近くでうろたえている母親に対して向けられた冷たく無感動な表情にドキリとした。以前ソルボンヌ大の偉い演劇専門家がフェードルの娘が見つめる視線の先には母親は既に存在せず「不埒な恋人に向けられた」それと語っていたことを思い出した。
 これもまた実存は本質に先立つものとしたら、でも単に子役は演技できずにいただけなのかもしれない。
 ところで指揮者のボーダーは素晴らしい仕事。来て良かった。
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 深夜のノイバウガッセ駅。