シルヴィア・コスタ講演会 「イメージの求心力:アイディアを舞台上に具現化する方法」

 シルヴィア・コスタ講演会 
 「イメージの求心力:アイディアを舞台上に具現化する方法」
 ロメオ・カステルッチの共同演出家、シルヴィア・コスタの芸術世界と実践
 9/19 19時~ イタリア文化会館 アニェッリホール
 
イメージ 1

 来週はバイエルンオペラの「タンホイザー
 軽く予習しておきたいと思い、コスタの講演会を受講してきました。
 新演出は頭を空っぽにして鑑賞すべき?かもしれませんが、知識の積み重ねは大切であり、都度新しい発見もあると最近は考えています。ミュンヘン初日のラジオ放送、何回目かの舞台は映像として配信され、次は何がどう鳴りどう動くのか粗方頭に入っているから、仮に細かな改訂があっても対応できるかもしれません。
 実演が楽しみです。
イメージ 2
 以下自分のためのメモ 黄色字は思ったこと。

 <舞台クリエイション>
 既存のスタイルを持たない努力。ピュアに作品に対峙すること。(スポンジのような資質と表現。)
 レンズの焦点を合わせるイメージ。<観客とは共同体>でなければならない。カステルッチも同意見。
 知識人ってだいたい似たようなこと発言する。

 <演劇とオペラの違い>
 演劇では時間を操作できる。オペラは音楽存在により時間を操作できない。
 支配。テンポや時間だけではなく、自ら枠組みの中に入っていく。伝統に寄り添うことで改革を起こせると考えた。
 楽譜に対してどの程度知識があるのか疑問を感じた。ワーグナーが好きであれば音楽に支配されているとは思わないのではないかな。
 
 <弓矢について>
 全幕を通して出現するアイテム。
 序曲では武器としての矢。プリミティブな武器。狙われる対象は大きな絵画「目」のオブジェ。途中から「耳」に変化する。目は観客の視線であり、耳もそういうことでしょう。
 二幕では詩人の弓。詩が何もかも突き刺す。エリーザベトの存在。タンホイザーは傷をうける。
 三幕、象徴としての矢。ゼノンの矢。動いている矢は止まっている。
 つまりゼノンのパラドックスのお話。アキレスと亀を思いだした。
 矢・・だからどうしたんだっけ?忘れた。
 そういえば、元々眼球の中に欠損した部分があるそうで、つまりきちんと見えていない→それが舞台であるとお話されていました。
イメージ 3
 <醜い容姿のヴェーヌス>
 タンホイザーは2つのエネルギーの対立、全ての要素がある。
 最初の言葉が「もうたくさんだ。」度が過ぎた享楽への嫌悪。
 届くことのない願い。自分の中の欠損を発見したときに欲望を認識する。
 タンホイザーにとって、欲望の真の対象はエリーザベトである。
 ちょっと違うような気がするな・・

 <灰>
 最後にタンホイザーとエリーザベトが灰になる。灰は「救済」を意味する。
 身体を離れたところでしか愛は成就しない。
 
 まだお話はありましたが、草臥れてしまい考えることを放棄してしまった。質問は紙に書いてスタッフにわたしてくださいと言われ、身体を離れたところでしか愛は成就しないの意味がわからない。欲望を解決させるだけで人生充分である。と書いて提出。
 ところで、僕の前の列にいたおっさん(糞ジジイ)が質問書いているところ見えてしまい、実にどうでもいい話なんだけれどバイロイトラインの黄金でどうのこうのだったから、棒で思い切り頭を叩いてやろうかと思った。この男、弓矢映像が紹介されたときずっと音楽に合わせて身体を揺すっていた。弓矢があったら僕は逮捕されていただろう。
 なんか30枚以上くらい用紙が集まっていたので何が選ばれるかなと思っていたら、MCされていたアートプロデューサーの相馬さんが「面白いご意見がきました。そのまま読ませていただきます。」と前置きされて僕のが紹介された。内容から場内笑いが起こった。愛の成就を死後完結させるが常識だとしたら凄いことだと思う。
 コスタさんから明確な返答はなかった。なんかタンホイザーがそういう人だから?とか話していた。
 タンホイザーワーグナーが勝手な妄想で作り上げたおかしな話。知的な内容ではない。美しさの追求は健全と思えるけれど、もっと暴力的で構わない、泥に塗れたような人間ドラマを求めたくなる。
 もしかしたらコスタはまだまだ発展途上段階かな。生真面目な人だとは思いますが。

 そういえばNBSの「初オペラ半額券」とかふざけた販売が行われていて、S席が29000円とのこと(怒)
 今の時代は発売日に買わないほうがお得?

 その後MFさんと合流してロイヤルホスト九段下店にイン。
 日曜日のマーラー5番お聴きになったそうです。
 動画はつい先日の台北公演。5番のフィナーレ。ペトレンコが熱い!
 バイエルンの皆様、日本へようこそ!

 終電の2本前で帰宅しました。