キリル・ぺトレンコ指揮バイエルン国立管 10/1 ワルキューレ第1幕

 近所の植木屋でラインゴールドなるものが売られていた。
 間違って買いそうになる。我慢した。 
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 10月1日15時開演
  ワーグナーワルキューレ』から第一幕 
  ジークムント:クラウス・フロリアン・フォークト
  ジークリンデ:エレーナ・パンクトラヴァ
  フンディング:ゲオルク・ツェッペンフェルト 
 
 時間が経過しました。この演奏会は集中しすぎて疲れてしまいました。通常のコンサート10回分くらいのパワーを使った。でも回復してきたので、忘れないうちに感想を記します。
 「子供の不思議な角笛」に続いて『ワルキューレ』から第一幕。
 スタンバイしたオケの前に登場したのはマエストロのみ。会場内のざわつきが収まる前にタクトを振りおろし一気に豪快なワーグナーに飲み込まれた。
 歌手はストーリーのまま、それぞれ出番になったところでステージに現れ役割を務めるので、演奏会形式ではあるけれど限りなくオペラ上演に近い感覚を楽しむことができました。
 序奏は吃驚するくらいの音量。オケ全体が波のような動きをする一体感。実際こういう現象はあまり見ることはない。
 仲良くなれないタイプでやたら音質やホールの良し悪しに拘りすぎる音楽好きは聴覚優先の傾向があって、夜な夜な渋谷ライオンとかにやってきてシューリヒトやメンゲルベルク等のレコードを聴きながらベートーヴェンデスマスクみたいな顔しているわけ。何がいいたいかというと、舞台はわりと視覚のなかに答えがあると思っていて、今回のケースで考えるなら、ペトレンコの細部にまでゆき届いた神経質な動きと奏者の反応が、ある種のステレオグラム画像のような立体性を構築していることに気がついてくるのです。簡単に説明するなら3Dに見えてくる。そして更に注意深く観察していればサラウンドのように聴こえてくる。若干時間が必要なのは、たぶん脳の処理がそうさせていると思うけれど、潜在的にある現象なのではないかな。それか頭がおかしいかどちらか。
 とにかく立体性を感受するときは名演が多いと記憶している。
 ほどなくしてフォークトの登場。
 Wes Herd dies auch sei, hier muss ich rasten. ここは誰の家だろう。私は休まなくてはならない。
 前回同様、音符の上に丁寧に言葉を乗せるような歌いだし。ボリュームを下げるペトレンコ。
 ここに興奮した人たちも多いかと思うし、僕も似たようなものですが、どうしても命からがらフンディング邸に辿り着いた戦士に感じられなかった。だから「休まなくてはならない」というより、「まだ走れるけれど、少し休憩しよう」みたいな雰囲気。ファンの人たち、すいません。フォークトに関しては来日前から予感がしていて、それは数あるワーグナーの登場人物のなかで、どうして最も人間臭いタンホイザージークムントなのだろう、大丈夫かな?だった。その後自分の耳が慣れたのか、彼が殻を突き破ったのか、とにかく素晴らしい方向に進んでいきました。
 エレーナ・パンクトラヴァは素敵な歌手だと思いました。見た雰囲気はジークリンデというよりアイーダかデリラだったのですが、そこそこ抜けのいい声質。実はヴェーヌスのとき素晴らしいとは感じたけれど、1幕は斜幕で集中できなく、3幕では裏で歌う設定だったから、あんまり印象に残らなかったのです。細かなこと付け加えると、声量を求められる高音或いはそのままだけれどFの部分で声が揺れてしまう傾向があって、若干何を歌っているのかわからない箇所がありました。フォークトとの相性は良好のようでした。
 ツェッペンフェルトには最も期待していた。ずば抜けた安定感と美声。登場したときからフンディングが憑依しておりました。ただこの人もう少し大きな声だったはずだけれど?気のせいかもしれません。
 Du labtest ihn? 傷を治療したのか?・・休止符。指揮者の指先。文学でいうなら行間。なにもかもが素晴らしい。この後ペトレンコの動きでは、ツェッペンフェルトに対しては殆ど合図を出さず、大半はジークムントに捧げられ、おのずと音楽に艶っぽさが増したように感じられた。一瞬フォークトに対しての不安がそうさせたかなと思ったけれど、もしかしたらペトレンコってもの凄いロマンティストかもしれず、とりわけジークムントという役柄に憧れを抱いているのではないかと考えた。僕はそのタイプにあてはまらないけれど「ワーグナー全部の中で誰になりたいか?」と問われたら間違いなく「ジークムント」と答える。なぜなら最後まで人間でありたいから。
 以前古本屋で歌手の昔のインタヴューものを立ち読みしていたら「将来歌いたい役柄は?」という質問に対して、パヴァロッティは「ローエングリン」爆笑。ドミンゴは「トリスタンとパルジファル」夢を叶えたということか。その後にカレーラスの箇所を読み涙が出そうになってしまった。なんと「ジークムント」と答えていた。憧れは努力だけで解決できない。そんなことを思い出すとジークフリートの動機が鳴る。ワーグナーは素晴らしい。
 Wälse!は想像していたより長く見事なもの(カウフマンや昔のスミスの半分以下だけれど)フォークトって調子のり出すと疲労の気配が全くないから不思議。
 そういえば演奏会の前日にMFさんとやりとりしていて、なんでもお知り合いと「フォークトは・・春が入ってくるんじゃなくて最初から春」という笑い話があって「確かに春だな」と余計なことを考えながら鑑賞しておりました。最も美しい旋律「冬の嵐は過ぎ去り」ではマエストロが細かく歌手を指揮。なんとなく全盛期の小澤さんを思いださせた。別にネガティブな意味ではなく、オペラグラス覗きこんでみると、ジークムントの所作やブレスまでもオーケストラに吸収してまた音を立ち上げ、それに敏感に反応する歌手。情熱的な世界。
 Kナガノ時代の"Winterstürme wichen dem Wonnemond"があったのでご参考まで。
 それからホール問題を嘆いているファンが多かったようで、それはPC経由だったり、ロビーの話し声からですが、僕はあまり気にならなかったです。普段から作品にだけ心を開く訓練していれば上野であろうが渋谷でろうが大きな弊害にはならない。それに巨匠は器に合わせ演奏してしまう。バイエルンの若々しい音色と共に。
 それと以前からオペラ演奏会形式の場合どうしてピットを使わないのだろうと思っていましたが、どうやらオペラと完全に別ものなのは狭い箱の中では努力しても開放的なサウンドにならず、どうせ鳴らすなら鮮度の高い音楽を提供したいのでしょう。でも今回の場合はただ鮮度に拘っただけではなく、作曲家でさえ想像することのできなかった絶対的な高みを目指しているように感じられてくる。それは簡単に到達できやしないし、ほぼ不可能と本人だって理解しているだろうけれど、そこに作品がある以上求めずにはいられない。いずれにしても歌手の真横で指示を出すマエストロの姿が興味深く思われた。
 ノートゥンクをトネリコの幹から抜くシーンは感動的。
 Braut und Schwester bist du dem Bruder - so blühe denn, Wälsungen-Blut! フォークトはブレスのタイミングを間違えたかな?伸ばせずにショートカットだったからドキリ!でもその危険なタイミングでさえペトレンコは早めに受け止め、怒涛のラストに突入した。(調べてみたらあの歌い方がフォークトと判明)音の厚み、速度、こんな音楽聴いたことあったかな。凄すぎ!短い時間の中で再び立体映像のような同調性がオケを支配した。
 ※その後ペトレンコがバイロイトでどのような演奏していたのか気になり、録音してあった2014年のワルキューレを聴いてみました。反対意見の人もいるかと思うけれど、基本的に変わっていないように感じられた。それはあくまで音楽的な判断。全く異なって聴こえてくるけれど同じ人の指揮だとわかる。つまり与えられた環境の中で今自分に何ができるかという志のようなものが見え、双方が素晴らしいものだったと気がつかされる。
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 お客の「ブラボー!」は最早狂ったような叫び(笑)
 写真はアホみたいに騒ぐ聴衆。
 ペトレンコはシャイな性格なのか、カーテンコールで歌手の後から静かに現れて小さく恥ずかしそうにお辞儀。
 というわけで、とんでもない演奏を聴いて(見て)しまったようです。
 幻聴幻覚の可能性もあるでしょうが、15日にラジオで、来月はBSで放送されるようなのでご興味あったらご確認ください。
 
 その後、松本から来られたGu・・さんと合流して飲みに行きました。