「エフゲニ・オネーギン」 フェドセーエフ チャイコフスキー響 11/9

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 チャイコフスキー歌劇「エフゲニ・オネーギン」演奏会形式を鑑賞してきました。
 キャストは以下の人たち。
  タチヤーナ:ヴェロニカ・ディジョーエヴァ(ソプラノ)
  エフゲニ・オネーギン:ワシーリー・ラデュク(バリトン
 レンスキー:アレクセイ・タタリンツェフ(テノール
 オリガ:アグンダ・クラエワ(メゾ・ソプラノ)
 ラーリナ:エレーナ・エフセーエワ(メゾ・ソプラノ)
グレーミン公爵:ニコライ・ディデンコ(バス)
 フィリッピエーヴナ:スヴェトラーナ・シーロヴァ(メゾ・ソプラノ)
 トリケ:清水徹太郎(テノール
 ザーレツキー&中隊長:五島真澄(バス)
 新国立劇場合唱団
 合唱指揮:冨平恭平
 チャイコフスキー交響楽団119日、NHKホール)
 指揮:ウラディーミル・フェドセーエフイメージ 2
 いつもと同じような場所。不思議なのはNHKの3階席に耳が慣れてきたことで、あちこちで酷評されているホールだけれど最近では奇妙な愛着が湧いてきている。歌に残響少な目はありがたい。
 しかし空いていた・・演目に問題があるのか、それとも演奏家が不人気だから、たぶん両方だと思うけれど「オペラ好きだけが集った」と考えればいい。元気な時なら前のほうに移動して聴いていたが、そういう気力は今は昔。渋谷に出てくるだけで大変なので、数日前から無駄な作業を省きながら徐々にチャイコフスキー・モードに入ってきたのです。否、正しくはプーシキン・モード。
 オネーギンを初めて読んだのは高校時代。劇的なものを愛好していたのは単純に解りやすさにあったと思うけれど、ピュアな心に強烈な一撃だったことは事実。
 独創性。明解な展開。色彩感覚。春の喜び。凍える情景。苦悩。拳銃。紆余曲折。波瀾万丈。
 原書では韻文。つまり物語ではなく詩なのです。翻訳に限界はあるけれど、読まなければならない名作の一つだと思う。
  開演前に西村朗さんのプレトークがありましたが、マイク片手に舞台上でお話されている光景は自分の仕事を見ているみたいで落ち着かない。ロビーで持参した珈琲を飲んで時間を潰した。天井スピーカーから西村さんの「オネーギンはヴェリズモオペラ」と聞こえてきて、ヴェリズモの枠組みに入れられても困りはしないけれど、なんとなく座りが悪い印象。
 

 今回は1幕と2幕1場まで続けて演奏され、20分の休憩を挟み、2幕2場と3幕という流れ。つまりおトイレタイムまで約1時間50分。椅子も背もたれもなく立ったまま指揮をするマエストロ85歳の後ろ姿にジーンとした。少なからずこんなに元気な85歳を僕は知らない。普通はジジイである。しかも昨年意識を失い入院したというからなおさら感慨深く思われた。
  フェドセーエフはこれまで何度も聴いてきましたがオペラは初めて。元々オーケストラ指揮者だからシンフォニックな音楽になる危惧がありましたが、良い形で裏切られロシアオペラの世界に導かれた。
  途中から目を閉じて鑑賞。かつてボリショイオペラ公演で観たオーソドックスな舞台装置と演出が浮かんで、プーシキンの世界が立体的に感じられ、チャイコフスキーだって理想を求め敬愛する詩人に歩みよったことが分かる。
  フェドセーエフショスタコーヴィチプロコフィエフのような尖った音楽でも温もりや優しさを表現する特徴があって、たぶん人間性だと思うのですが、歌手や奏者に対して無理な注文を求めず、彼らのコンディションをリアルタイムで見極める。別の言い方するなら、失敗しても原因を誰かに押しつけず、恐らく全ての責任を背負う人。だから今回の来日公演で他にも沢山指揮しているけれど、全てが名演ではなく、奏者のミスやバランスの悪さに嫌悪を抱く人もいるように思う。以前自分でもそんな演奏会にぶつかり、あれは学生時代の神奈川県民ホールでの悲愴交響曲。1楽章~2楽章でストレスを覚え、怒りこそなかったが残念だった。ところが3楽章を聴いているうちに、理由もなにもわからないのに涙が出てきた。ほんの20~30分の間に何が起こったのか説明もできない。でもそれだけで忘れがたい音楽会になったのは事実。批評家はいいこと書かなかったことでしょう。
  皆何を基準に作品の良し悪しを判断するのだろう。立派なオーディオでレコードやCDなのか、或いは実演を一度聴いだけで烙印を押すのか、耐えられないなら仕方がない。それにこちらからは何も反論しない。少し人生に草臥れているから。
  歌手は皆素晴らしかった。
  代役のディジョーエヴァは村の乙女から公爵夫人まで見事に成長過程を演じ、ロシア女性の強さを表現。響きわたる大きな声に魅せられた。
オネーギンも良かった。安定した歌唱は訓練の賜物と思う。間違いなくこの人もプーシキンの住人。
レンスキーは声量不足。でも音程はしっかりしていて、若干感情的になりすぎる傾向があるようだったけれど、命を投げ出す勢いが若さであるなら、それが生きた証。この人にカリンカを歌わせたいと思った。
  グレーミン公爵は見た目若すぎるが演奏会形式だから仕方がない。あとは聴き手の想像が解決させること。
  それから決闘シーン後に直ぐにやってくる舞踏会。実際には間に数年経過しているわけで少し脳の調整が必要でした。

  人生は様々な出来事に遭遇する。僕らはここまで劇的じゃないけれど共感は可能。恋愛のいざこざ、貴族の権威、親友を決闘で失い放浪、再会、情熱、悲しみ。夢のような美しい音楽に彩られる。
フェドセーエフに感謝。名演。スタンディングでの喝采がそれを証明していました。