ミュンヘン その4 デューラーとヤナーチェク「死者の家」プレミエ

 毎日のように利用していたカフェは地元民だけの雰囲気。きちんとしたバリスタがいてとても美味しかった。
 メニューも種類豊富でしたがラージサイズのエスプレッソしか飲まなかった。
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前の席に労働者が二人。背中の文字が気になりアップで確認すると「Super Dry jap 極度乾燥」と記されていた。そういえば以前「義理母」と記された厳つい男のタトゥーを見たことがある。意味を知らずにいるなら一つの幸せ。

その後アルテ・ピナ・コテークへ。
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 デューラーと再会。約20年ぶり。
  22歳の自画像は職人から芸術家への飛躍を決定づけた作品。キリストのような模倣は信仰心だけではなく未来への決意表明と思われる。

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  宗教絵画の最高傑作。デューラー「四人の使徒」左から聖ヨハネ、聖ペテロ、聖マルコ、聖パウロ
  ヨハネはだいたい最後の晩餐に用いられた聖餐杯だけれど、ここでは聖書を開いている。
 小さな書物は新訳のそれ。
 ルターは1517年「95か条の論題」1521年に聖書をドイツ語に翻訳。「四人の使徒」は1526年。
 天国の鍵を持つペテロは責任ある立場。ヨハネの朗読に耳を傾けているよう。
 マルコとパウロは目に特徴がある。マルコはパウロを見ているかと思いきや、近くで観察するなら別の方角と感じられてくる。パウロは大きな聖書(つまり旧約)を閉じ、絵画を鑑賞している我々へ視線をおくっている。
 デューラーは過去へのアンチテーゼ、新たな社会と信仰を受け入れる寛容さを表現した。
 気質の異なる四人には必ずモデルが存在していると思う。

 ここから先は完全に根拠の無い想像ですが、モデルは当時のニュルンベルクで尊敬を受けていたルター派の職人ではないかと考えた。
 デューラーとハンス・ザックスは同時代。しかも同じニュルンベルク出身。
 ワーグナー好きとしてはドキドキしてしまうが、二人は知り合いだったのではなかろうか。
 ハンス・ザックス1494年11月5日-1576年1月19日 /アルブレヒト・デューラー1471年5月21日- 1528年4月6日
 (※ここまで書いてドキリとした。アルテ・ピナ・コテークに訪問した5月21日はデューラーの誕生日だった。)
 「四人の使徒」は1526年の作品。つまり当時ザックスは32歳。
 ↓の絵画は他の画家による晩年のザックス。
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  これを脳内で32歳に変換させるなら限りなく聖マルコだと感じられる。


 蛇足ですが、マイスタージンガーでザックス周辺の登場人物、ダーヴィット、エヴァ、マクダレーネ等は全て聖書に登場する名前だけれど、絵画を前にしてヴァルターとは?と疑問が生じた。
 以前ブログで「エヴァ=イブ」であり、つづりも同じと書いたことがありました。それを意識したのはアーノンクール来日公演でハイドン天地創造」を聴いたときで、何年も前の文章で恥ずかしいけれど以下のようなもの。
 <第三部の始まり、天使ウリエルのレシタティーボ「・・誘惑に・・」の前のくだりで、翻訳を紹介すると
 「薔薇色の雲を破り 若やいだ 美しい朝が 現れる  天からの清らかに調和した調べ」
 これが「マイスタージンガー」第三幕、若い騎士ワルターにより歌われるエヴァへの愛を誓う「優勝の歌」で
 「朝は薔薇色に輝き 大気は 花の香にふくれ えも知らぬ 快さに満たされ 庭は我を誘う」なのですが、私を笑っていただいてもいいけれど、何だか偶然に思えなくて、エヴァはイブ(Eva)で同じだなとも気がついた。>と言う文章。ヴァルターが新しい風であり、デュ-ラーの新たな社会と信仰を受け入れる寛容さと符合していると考えるなら、ワーグナーはルターの改革に騎士ヴァルターのマイスター称号を重ね合わせたのでは。
 LutherとWalther。therが同じつづり。意味のない言葉遊びです。

 そんなこと考えていたら約30分動けなくなった。
 それで草臥れてしまいルーベンスダ・ヴィンチほぼ素通りという贅沢な時間でございました。

 もう一人の好きな画家フリードリヒはノイエ・ピナ・コテークに所蔵されているが、薬が切れフラフラしはじめたので今回はパスした。

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  英国庭園で休憩。
 旅の目的はオペラと美術館だけではない。公園の芝生で昼寝。

 <女の子と母親と犬>
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  <男性が二人。カップルだろうか。>
 朗読者と聴く人。ヨハネとペテロではない。
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  <気持ちが良く、およそ2時間木陰から空を眺めていた。
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  求めていた五月。
  <売店にはブロンド女性>
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  <小川>
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  一度ホテルに戻り夕方まで休憩。
  そして国立歌劇場へ。
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  ヤナーチェク歌劇「死者の家」
 巨匠カストルフによる新演出初日。
 
 Musikalische Leitung  Simone Young                               
 Inszenierung  Frank Castorf    
           
 Aleksandr Petrovič Gorjančikov  Peter Rose
 Aljeja, ein junger Tartar  Evgeniya Sotnikova
 Luka (Filka Morozov, im Gefängnis unter dem Namen Luka Kuzmič)  Aleš Briscein
 Skuratov  Charles Workman
 Šiškov  Bo Skovhus
 Großer Sträfling / Sträfling mit dem Adler  Manuel Günther
 Kleiner Sträfling / Verbitterter Sträfling  Tim Kuypers
 Platzkommandant  Christian Rieger
 Der alte Sträfling  Ulrich Reß
 Čekunov  Johannes Kammler
 Betrunkener Sträfling   Galeano Salas
 Koch (Sträfling)  Boris Prýgl
 Schmied (Sträfling)  Alexander Milev
 Pope  Peter Lobert
 Dirne  Niamh O’Sullivan
 Don Juan (Brahmane)  Callum Thorpe
 Kedril / Schauspieler / Junger Sträfling  Matthew Grills
 Šapkin / Fröhlicher Sträfling  Kevin Conners
 Čerevin / Stimme aus der kirgisischen Steppe  Dean Power
 Wache  Long Long
 Bayerisches Staatsorchester
 Chor der Bayerischen Staatsoper
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  とんでもない舞台を観てしまった。
 わざわざやりくりしてドイツまで出かけ正解。忘れられない思い出を獲得しました。
  ちなみに1列目だったので舞台全体を細かく確認できていないし、オーケストラも近すぎて理想的な音楽とはいえなかったけれど、出演者その1になれたような臨場感だった。
 参考まで動画。
お話はドストエフスキーの有名な小説ですからご存知の方も多いかと思います。
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  カストルフは舞台上に本物の家を作りあげた。
 
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  回転舞台になっているのはカストルフの最近のムーブメントなのでしょう。
  また演者に紛れてカメラマンがいて、その場で撮影した映像がリアルタイムで投影されるシステムになっている。
  それは歌うときだけの動画ではなく、舞台の裏まで映し出されるので、出演者全員が休むことができず、常に演技が要求される。シュトゥットガルトの「ファウスト」やバイロイト「リング」でも同じような手法ではないのかな?
 例えばアレクサンドル・ペトローヴィッチ・ゴリャンチコフが収監され、本来であれば別の歌手に引き継がれた後でも建物の内部で暴行を受ける(棒で何度も叩かれる)シーン等全てを見せる。
 最も驚いたことは歌手の演技力で、いつ頃から稽古が始まったのかわからないけれど、専門の役者でさえ凌駕しているようなある種危険な没入に恐ろしさを覚えた。


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 家にはペプシコーラの看板があり(英語で裏はロシア語)権力により管理されているものの、ある程度の自由が保障されているように見え、ここはどこだろう?どうしてもオムスクの監獄とは思えない。
 しかしゆっくり思考しているゆとりを演出が許さないので、視覚上の些細な疑問なんぞどうでもよくなってくる。
 それよりも人は危機的状況に追い込まれた場合どのように周囲を観察掌握し交渉を重ねていくのか、卑劣さと傲慢さ、ドストエフスキーの観察眼と文体上の表現力に導かれる。
 僕は勘違いしていたみたいで、長い小説をヤナーチェクは全体で1時間半程度の歌劇に収縮させていると思っていた。
 ところが人の演技は全てを語るようである。登場人物の多さは少なからず読書時に混乱をきたすが、いちいち意味を求める必要はなく、それがロシア文学なのです。
 気がつけば演劇シーンで目頭が熱くなったり、冷静でいられない感情の起伏。慌ててポケットから薬を取出し水無しで2錠飲み込んだ。
 カストルフは人間の誇り高き優しさと信頼共有の特殊性を見出すことに成功したと思う。
 ゴリャンチコフが開放されるシーン。思い返すと聖地に別れを告げ、混沌の只中へ歩み出すように感じられた。
 これはどういうことだろう?
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 ※シモーネ・ヤングについて。
 思ったより好ましかったが、全体的に柔らかい音を求める傾向があって(美しく纏めようとしている?)個人的趣味の問題でしょうが、もう少し尖がった音楽を求めたくなった。
 実はこの指揮者初めての鑑賞で、動画サイトでブルックナーやオペラの断片は聴いていたけれど、良い言い方するならわりと素直な順応性、悪い言い方だと特殊な傲慢さ?スラブ系作品はいかがなものか。
 アングロサクソンだったかな?
 ただ聴衆は皆満足したようでブラボーの喝采。嬉しそうなシモーネ。

 歌手は皆が大健闘!
 カストルフは今まで聞いたことない大ブーイング(笑)いいんじゃない!

 26日にライヴ動画配信があって再び鑑賞。
 舞台の仕組みが詳しく理解できた。ただ生のインパクトが衝撃すぎて、復習は確認作業でした。
過度な集中力は心身を疲労に追い込む。珍しく誰からもサインを貰わなかった。
 しばらく劇場出口からまだ明るい空を眺め、このまま誰も知らない街に行ってしまいたいと考えた。
 このとき歩くことが困難なほど首と足腰に痛みを感じていて、目の前のトラムに乗車。最後の夜だから美味しいものを食べに行くつもりだったけれど、早くホテルに戻りたくなってしまった。(実はこの痛みは成田空港で頂点に達し、カートを引きずりながらだましだまし歩いたけれど、車椅子レンタル直前だった。帰国3日後から徐々に回復。)
 
 空腹だからスーパーでお買物。
 レモン風味のビールと普通のビール。チキンとポークとサラダとデザートのベリー。
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 ホテルは過ごしやすく駅まで数分の立地は便利でした。しかしもう行かないと思う。

 次回の旅行は完全に未定。いつも金額を安くする工夫しているけれど、3年も続けていれば随分使ったなと思う。 次はいつになるのやら。
 それでも(大袈裟だけれど)夢なくして生きられず、PCで海外歌劇場の来年度スケジュールを見る今日この頃。
 悲しいかな、2019年度は趣味に合うものがあまりない。

 ※日本国内での西欧芸術鑑賞にどことなく限界を感じている。年齢と共に自分の好みが変化してきたことが原因かもしれないけれど、ことに舞台演出に関してあまりに酷いものばかりで、何のためにチケット購入しているのか虚しくなることが多い。わかりやすく言うと招聘元の「売れる」コーディネイトに飽きてしまった。
 もうありきたりの舞台は絶対に行かないと誓う。

 今後の予定。
 明日(もう今日か) ロトの「春の祭典」他 初台
 7月 自分の朗読とMC舞台 埼玉
 8月 ミンコフスキの「ペレアスとメリザンド」 初台
 9月 夏フェスのブーレーズ サントリーホール

 11月のグリモーは今週末発売
 来年3月 カンブルラン指揮の「グレの歌
 その他は未定。