ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」 9/2(土)18時~サントリーホール サマーフェスティバル2018
ブログ更新したいと思いつつ殆ど何も出来ないまま夏を終えようとしています。
9/2(土)18時~サントリーホール サマーフェスティバル2018
ザ・プロデューサー・シリーズ 野平一郎がひらく 《フランス音楽回顧展Ⅱ》 現代フランス音楽の出発点~音響の悦楽と孤高の論理~
ラヴェル (ピエール・ブーレーズ 編曲):『口絵』(1918/2007、日本初演)
フィリップ・ユレル:『トゥール・ア・トゥールⅢ』~レ・レマナンス~(2012、日本初演)
ピエール・ブーレーズ:『プリ・スロン・プリ』~マラルメの肖像~(1957-62/89)
フィリップ・ユレル:『トゥール・ア・トゥールⅢ』~レ・レマナンス~(2012、日本初演)
ピエール・ブーレーズ:『プリ・スロン・プリ』~マラルメの肖像~(1957-62/89)
野平一郎氏を目撃。あの人はいつも誰かに似ていると感じる。
あまり普通の生活をしていないような独特な雰囲気は、スイスアルプスの山小屋みたいな場所でセガンティーニ的なそれとか、系統としてはたまたまピアニストのルプーの遠い親戚だったりとか、牧神・・がやたら長い午後を過ごしそのまま年老いた。もしかしたら亀を助けた若き青年の玉手箱を開けた後だったかもしれない。
演奏会の副題「音響の悦楽と孤高の論理」ダサいコピーである。
涼しいとまではいかないけれど、あの異常な暑さから開放され、そこそこの湿度の中、1階の成城石井で買ったウィルキンソン辛口ジンジャーエールが爽やかな広場。ここまで来ると森ビル内のイタリアンレストランの調理人や、最上階の高級会員制クラブのマネージャー兼ソムリエが友人だと思いだす。音楽と食事をリンクさせることが難儀で毎回ホールまっしぐら。とは言っても会員制の方は入れない。かつてその友人が職場で自分の結婚披露宴することになったときが唯一の訪問。エレベーターを降りたら数点のコルヴィジエ絵画に囲まれたホール前で「久しぶり!」と迎えてくれた。列席も知人ホテルマンやコックさんが大半でやたら美味しそうな食事が供されていた。ありがちなテリーヌではない内臓そのままの形状のフォアグラ。「これ美味しいよ!でもあげない。司会者可哀想。」と嫌味なことばかりされた。(お前らはご祝儀持参で来ただろう?俺はギャラを貰う立場だ。心の叫び。)
もう何年も会っていないけれど、互いに何も出来なくて上司先輩から叱られていた(今思えば完全パワハラ)時代に知りあい、緩い言葉だけれど友情が育まれた。たぶんそれは会う回数とは比例しない重みがある。
S席4000円~B席2000円。学生席1000円。秋のバイエルン放送や来年シカゴ響の10%以下。いつもこの位の金額だと有難い。正直に思うのは僕は高額な舞台を鑑賞する資格を失いつつある。それと日本の聴衆に向けられた演目の妥協?サービス精神とも言うが、様々な感情がいりまじり半分やけくそ気分。でも夢なくして生きていけないことが人の宿命なら異なる分野に歩み出すのも悪くないと考えています。
この日、昼14時開演の府中(モーツァルトホール?)合唱演奏会にも誘われていた。いつも舞台でご一緒するピアニストさんの伴奏。理屈としては間に合うとは思ったが、たぶんどこかのタイミングで身体の具合が悪くなると思いお断りした。
それが正解だったのは、音楽が鳴り出してから脳の軸が狂い始めたから。
フィリップ・ユレルの時間が最悪で、激しい発汗に襲われ呼吸も安定しない。たぶん良い音楽なのかも?だけれど、一度あちらの世界に入り込むとなかなか帰ってこられなくなる。実際には10分も経過していないでしょうが、1時間くらいに思われ「早く楽になりたい」と思う。
ブーレーズ:『プリ・スロン・プリ』は良かった。「音響の悦楽」の意味を理解できたのは、youtubeやCDの予習が役に立たない典型の音楽。様々な音色があちこちから聴こえ、P~fの幅も大きく、時にかなりデカイ音を鳴らす。
あんなもの自宅で再現できるわけがない。
サウンドは限りなく美しく、しかも退廃していない。
マラルメの詩は全集でも購入しなければ読めない状況で当日パンフレットに期待するしかなかったが、ラッキーなことに翻訳つきだった。誰か偉い先生のお仕事と思われたけれど酷い翻訳で絶望的な気分になりました。
仕方ないから、理解できないけれど原語の韻律に注意しながら言葉と音楽の融合に集中。でも融合なる語は間違いかもしれません。目を閉じながら鑑賞すれば「そんなもの最初から意味を持たないのだよ。」と作曲家が語りかけてくるように思われた。
幽体離脱。意識だけが天井付近まで上昇し、客席を見下ろすと自分の姿が見えた。
僕は眠っていたのかもしれない。でも全てが聴こえ全てが見えた。
あの肉体は自分だと強く感じろ。なぜならば、戻れなくなるから。