2枚の絵
皆さんの記事にコメントは書けるのですが自分の文章となると気力が出ず、その気になれないけれど、今月中にもう1つくらいと思いました。
随分前に何気なく描いた絵を2枚公開いたします。
18歳の頃に毎日御茶ノ水美術学院でデッサン習っていて、そこそこ上達してきた時期に家庭の事情で学院をやめてしまった。父の死だった。それから絵筆や絵具は押入れにしまって一切触れずに生きてきました。
ある日小さな画用紙にテーブル上のスプーンを鉛筆で短時間デッサン。右下のシミは珈琲をこぼした痕跡。
自室の洋服箪笥に意味もなく画鋲で止めて長年放置。部屋の一部というか壁紙みたいな存在。
これも小さなものですが、油彩用のキャンバスを使いアクリル絵具で描いた「オレンジ色のセーターの上の林檎と蜜柑」8年位前のもの。遊びに来た友人が「面白いな」と言葉にしてくれたが、額に入れるなど面倒な作業は考えずにこれまた放置。実際描いたとき蜜柑の数は3つだったようなきがするけれど、気がついたら増殖していた。18歳の頃に毎日御茶ノ水美術学院でデッサン習っていて、そこそこ上達してきた時期に家庭の事情で学院をやめてしまった。父の死だった。それから絵筆や絵具は押入れにしまって一切触れずに生きてきました。
DVDで売られているホルスト・シュタイン指揮でウォルフガング・ワーグナー演出と同じ舞台なのですが、たしか最後の2年シュタインからミヒャエル・シェーンバントに指揮が変更になり、休止符の取り方から記憶を手繰り寄せれば1年目の演奏だと思う。ヘルマン・プライがべックメッツサー役を降板し、ダービットもグラハム・クラークから変更になったのかな?でもあとのマイスター連中はそのままだった印象。そんななか一番大きな変更はペーター・ホフマンがワルターを歌ってくれたことだった。
音とは恐ろしいもんで、細部にいたるどうでもいい箇所を記憶していること。それは懐かしさというより、喉に魚の骨がひっかかったような気分。大まかにいえば昔はチューナーから余計な雑音が入らないかなとかカセットテープだからどのタイミングでB面にしようかなど、ワーグナーとは関係ない部分をさす。
だから1幕でワルターがマイスターたちにさんざん貶され「我が祖父が・・鳥の鳴声が・・」等と歌いだす直前に90分のテープをひっくり返さなくてはならないようなトラウマ(笑)
思えば、シュタイン、ウォルフガング、プライ、ホフマン、皆が死んでしまった。
でも、僕は名曲カフェとかでフルトヴェングラーとかカラヤンをリクエストするタイプの人がどうも苦手で、現在の・・言葉は可笑しいかもしれませんが「鮮度の良い音楽」じゃなければ感動に結びつかない性質を持っている。
しかもそれはほぼ実演に集約される。
ただ聴きかえすとヴァイクルのザックスってこんなに素晴らしかったんだな。最近のザックス歌い全てではないけれど最後のシーンはかなりギリギリ歌唱だからヒヤヒヤしているのです。
指揮にしてもそう。シュタインやシェーンバントだとシュタインとシェーンバントを感じないでマイスタージンガーの世界で過せる。(意味わかりますか?)
例えばいつの日かクルレンツィスがバイロイトにやってきたらどうなるのだろう?人気があるから否定したくないけれど、僕たちはティーレマンで学習しているわけで、あの人が少し若かったときシカゴリリックで「マイスタージンガー」を振ったときにはなかった「害」がバイロイト全体だけではなく、ウィーンで歌手の状態を考えずに全盛期のシュトルックマンに極度に遅いテンポを要求し高音をかすれさせた。許せない!と感じているのは自分だけかな?
「良い音楽とはなにかをじっくり考えて今後はチケットを買う」と改めて昔の音源から学んだということ。
ところで油彩画の道具は高額なので、アクリル絵具と筆数本とデッサン用の鉛筆を購入しました。
また始めるかという気持ち。少し前向きになれた。
明日、脳波の測定に出掛けてきます。
医師から「あなたは変人でクルクルパーです。」と言われたら・・それでも仕方がない。
人生なんてそんなもの。