カンブルラン指揮.特別演奏会〈果てなき音楽の旅〉 2019 3.19
既に1週間経過いたしましたが、下記の演奏会を聴いてきました。
2019 3.19〈火〉 19:00 紀尾井ホール
用事と言っても現在休職中なので、全てにおいて自ら仕掛けた忙しさで、病院のスケジュールやらスマホを解約して格安に変更等、普通なら何てことのない出来事でもいちいち時間が掛かる作業は難儀。
しかもアレルギーの薬が思った以上の副作用があり、電車やバスに乗ったとたんに眠ってしまい、この日も東京駅で乗り換える予定が気がつけば錦糸町で、慌てて逆の電車に飛び乗れば「しまった、これって横須賀線じゃない。」と地下に入り気がつく。それでもどうにか四ッ谷に到着し上智の横を歩き紀尾井ホールに辿り着いた。
入口で先日のサントリーノイズ事件の相談者が迎えてくれたが、全く僕の存在に気がつかない様子。所詮読響のスタッフはその程度。適当な性格なのだろう。
「終演後サイン会があります。」CD売場はいつものHMV。
ところが、紀尾井でも同じような(16000Hz以上と思われる)ノイズが聴こえてくる。少しサントリーより小さく感じるけれど、どうやら僕の耳にしか聞こえてこないとしたら、今度は耳鼻科か、もううんざり。
ヴァレーズ 1883-1965
ヴァレーズはマルセル・デュシャン、ル・コルビュジェ、アンリ・ミショー、ヘンリー・ミラー、マン・レイ、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、エリック・サティ等と交流があり、自分の人生を「ジャン・クリストフ」に準えていたらしい。ただ長く面白みのない小説を読んだのは14~15歳だったか、孤独を気どるわがままな作曲家の印象しかないが、ロマン・ロランの名言?混沌の中で微かな喜びを感じ取り「あなたは?」との問いかけに、彼を導いた聖なる存在が「生まれいずる日なのです。」のような最後だったなと思い出した。そういう語で感動を要求されるのが苦手。
「オクタンドル」とは8弁雌雄両性花という意味。8枚の大きな異様な赤い花びらを想像しながら鑑賞。舞台の奏者8人それぞれが悪臭を放つラフレシアの花びらに見えてくるから不思議。この音楽には臭いがある。
こんなものを描く画家はあまりいないだろうけれど、仮に二次元で表現されれば人を飲み込み蠢くようなイメージは静物画にあらず生物画のよう。
しかし先ほどまでの睡魔はどこへやら、完全に脳が覚醒している自分に気がついた。この日の作曲家の中では最も面白みのない作品でしたが、なにか不幸な出来事を予見しているような危機感を覚えたのは何故だろう。
アンリ・ミショー詩集のどこかに年老いた母親の臨終を表現した内容があり、詩人は笑顔の可愛らしい少女を見出す。感動的な詩だ。服用していてメスカリンの効用から描き上げた墨絵のようなミショーと対極の姿。
「オクタンドル」はその中間地点で揺らめいている影のように思われた。
メシアン 1908- 1992
1. Introduction/導入
2. Le parc de Nara et les lanternes de pierre /奈良公園と石燈籠
3. Yamanaka cadenza/山中湖~カデンツァ
4. Gagaku/雅楽
5. Miyajima et le torii dans le mer/宮島と海の中の鳥居
6. Les Oiseaux de Karuizawa/軽井沢の鳥たち
7. Coda/コーダ
2. Le parc de Nara et les lanternes de pierre /奈良公園と石燈籠
3. Yamanaka cadenza/山中湖~カデンツァ
4. Gagaku/雅楽
5. Miyajima et le torii dans le mer/宮島と海の中の鳥居
6. Les Oiseaux de Karuizawa/軽井沢の鳥たち
7. Coda/コーダ
ヴァレーズの臭いから開放されたからか、馴染みの作品だからか安堵。
改めてと申しますか、実演で聴くのは初めて。発見も幾つか。
Introductionは日本じゃない可笑しなリズムは、バリ島辺りとごちゃまぜと思う。
他の作品も日本か?そうじゃないけれど・・そういえば以前ブログで紹介した「アッシジ」の抜粋上演で来日した際のシンポジウムで、僕の「我らの大半はクリスチャンじゃない。」発言に激怒!!≪やばいぶっ倒れたら「仏の国宝、無知な少年の発言に激怒して死去≫なんて新聞見出しを恐れた過去を思い出し・・「でもあなた神道や仏教を理解できていない。」と今なら対等に議論できると思った。
それでも山中湖と軽井沢は世俗的世界のそれで、許されないのは雅楽で篳篥(ひちりき)をラッパなんてけしからんと感じる私。しかも皇居での体験に触発されたなんぞ血が許さない。(大叔父が宮内庁勤務の我が家系。何していたのか知らない。)
先日カンブルランのインタヴューを読んでいたら、宗教の違いは鑑賞に問題ないと記されていた。その時マエストロのリベラルを感じたのです。
自由主義は高貴な立場であり、そこでは思想の自由が保証されているはず。つまり寛容。寛容=敵と共に生きる=反対者と共に統治する=聖なる他者との合意=どうにか折り合いをつけるを意味する。
ようは、高貴な身分は庶民の中にいるトポスを認めなければならない。相手の自由を認めることに心理を見出すなら「メシアンよ。あんたは間違っている。」
てなことを考えていたら休憩時間になりました。
シェルシ 1905-1988
ウィキ参 ≪トサッティの証言はシェルシの死後なされたものであったにも関わらず、シェルシの生前から、イタリアにおいては、一部の作曲家の間でシェルシとトサッティの関係は「公然の秘密」であった。しかし、国外ではシェルシの「共同作曲」の事実は知られておらず、『ことばの誕生』が国際現代音楽協会(ISCM)の大会で初演されることになった際に、ゴッフレド・ペトラッシに対して、ISCMフランス代表の指揮者、ロジェ・デゾルミエールが「イタリアにはジャチント・シェルシという偉大な作曲家がいる」と語ったが、「共同作曲」の事情を知っているペトラッシは、笑いを堪えきれなかったという。
こういう話を読むとウィキはかなり適当。下まで読んでいくと、関連に「佐村河内守」の名前。もう嫌になる。
MFさんから具体的な事情を聞き納得。
例えば渋澤龍彦が巖谷國士 土方巽 細江英公 四谷シモン 金子國義 矢川澄子にいたるまで係わった全ての象徴が渋澤龍彦と考えてもいいと僕は思う。「サド」の翻訳は矢川澄子だと僕は文体から判断している。しかしこれは贋作ではない。
文章が長くなるので端折りますが、とても面白い世界がシェルシから広がっている。
グリゼー 1946-1998
ウィキ参 パリ国立高等音楽院でオリヴィエ・メシアンの分析クラスに在籍し、同時にパリ・エコールノルマル音楽院でアンリ・デュティユーの作曲クラスにおいて学ぶ。また1972年にはドイツのダルムシュタット夏季現代音楽講習会でカールハインツ・シュトックハウゼン、ジェルジ・リゲティ、ヤニス・クセナキスに学ぶ。同年ローマ賞を受賞し、滞在先のローマのメディチ荘でジャチント・シェルシと会い、倍音や音響現象に強い興味を抱くようになる。
超エリートである。しかし短い人生が残念でならない。
グリゼーの音楽思想の最初の集大成と言える「音響空間」は、ヴィオラソロのための「プロローグ」、7人の奏者のための「ペリオド」、18人の奏者のための「パルシエル」、33人の奏者のための「モデュラシオン」、管弦楽のための「トランジトワール」、そして4本のホルンと管弦楽のための「エピローグ」と、徐々に編成が大きくなる計6曲からなる。これらは全曲にわたってミ(E)の音の倍音に基づいて書かれており、純粋な倍音から噪音(ノイズ)を多く含む音、そして完全なノイズに至るまでの、さまざまな音響スペクトルの推移を描いている。
代表作の中から「パルシエル」だけが演奏された。
後日youtubeで全て聴いたのですが、この人は凄いと思った。
楽譜を確認すると奏者のパフォーマンスが絵画のように記されていて、例えばチェロ奏者が後ろを振り返る。マエストロがポケットチーフで汗を拭き振り回す。会場が暗くなり打楽器奏者のシンバルだけにスポットが当たり豪快に鳴らすと思いきや、ポーズだけで暗転。場内から笑い。
ふと気がついたのは、グリゼーの生きた時代は≪指揮者の時代≫で、星の屑じゃない、星の数ほどレコードが生産された。そしてCDの時代。どんなに美しく録音されたとしても音だけでは再現不可能。動画なら?ホールに行けば不可能だと誰もが理解するだろう。実演以外は陽炎みたいなものなのです。
カンブルランのカーテンコール
サインはもらわないつもりだったけれど、とりあえず列に並び自分のジャケットからポケットチーフを取り出して汗を拭く真似。
書きにくいから2人で一生懸命押さえながらの作業。カンブルラン大爆笑!握手してくれて嬉しかった。MFさん、シルバーのペン貸していただきありがとうございました。
チーフのサイン。これはお宝だぜ。額に入れて部屋に飾る予定。