資生堂パーラーとイゴール・レヴィットのゴールドベルク変奏曲

4/11(木)東京春音楽祭(東京文化会館小ホール)イゴール・レヴィットのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」は期待以上のとんでもない演奏でした。
 詳しくは後ほど書きますが、非常に贅沢な1日だったことから報告させていただきます。高等遊民だった小生も、いつからか高等貧民となり、この先は琵琶法師を断念してそのまま即身仏になるしかない状況。たまに財布に出現する500円玉を「カラン」と瓶に投入すること数ヶ月。遂に塵が山に(小さな丘程度だが)なったのが、つい先週のことだった。当初は4月頭には解決する予定でしたが、お世話になっている北本の合唱団と合流したり、元取引先のYホテルで久々のスタッフと喜びの再会したり人間関係は豊かであってもややこしい。疲労は精神が削られる。しかし薬があってきたのか比較的行動力が増した印象。一昨日までは。
 ということで16時に軽く食事と銀座の資生堂パーラー本店に入館。
 イタリーのミネラルウォーターで喉を潤し、グリーンアスパラの冷静コンソメスープとオムライスを注文。 
イメージ 6
 もしかしたら究極の冷静コンソメスープだったかもしれない。

 そして伝統のオムライス。こりゃ芸術作品。
イメージ 3
 どのようにしたらこんなに美しく作れるのだろう。

 場所を移動して宮越屋珈琲エスプレッソ。
 場所を考えると以前は「らんぶる」でしたが、ここ数年ハズレることが多く遠い存在となりつつある。 
イメージ 4

 この段階で全てに満足してしまい、演奏会がどうでもよくなるが、そういうわけにもいかないので新橋から山手線で上野に移動。車内の混雑は戦う労働者だらけで大混雑。よく毎日平気に過ごされているなと感心する。自分だったらパニックになるだろうな。
 東京文化会館は好きな小ホール。
過去現在含め様々な巨匠のサインがポスターを彩っていた。最初の頃は小澤征爾氏がタンホイザーやオネーギンだったと思い出した。
毎回クオリティーの高い出しものが多く、松本が更に遠くに感じられる。
 東京春は来年のトリスタンが今から楽しみ。

イメージ 1
珍しい?ムーティのサイン。初めて見た。女性アイドルみたいな筆記。

 カテリーナ・ワーグナーもありました。
イメージ 2


席はちょっと左側。でも指の動きは観察できるし、なんといっても超絶技巧の旬のレヴィットをこの距離は贅沢。
イメージ 5



ゴールドベルクは美しく静かに開始した。テンポ遅めのアリア。おしゃれな行間を駆使しつつ気取りの無いピュアな世界。幾つかのバリエーションに耳をすませれば、紙芝居を見ているような気分になってきた。トータルでのタイトルは人生とでも名づけようか。以前nemoさんに教えていただいた、仮にバッハにしては淡白で飾り気のないアリアが名もしれぬ作曲家の旋律だとしたならば、あれは誕生にあらず奇跡的な受精。我々が生きている確率は限りなく0に近く、そこから偶然の積み重ねに翻弄されながら嘆き悲しむ。時に喜びはあれど、バッハはそれでも過酷な試練を次々と与えてくる。中間地点を過ぎた辺りでふと自分の現在にまだ到達していないと感じ不安になってきた。つまり今は未来に所属しどうやら確実に死に近づいている。
 電車の中で感じた勤め人の疲労した表情や、楽しそうに「飲み屋に行こう!」と話し合っている数名の姿を思い出し、僕もフリーランスではあるけれど同じような時期があったわけで、刺激に満ちた日常に満足とまではいかなくても「これで大丈夫。」程度の自信は誰よりもあった。不確かだけれど22歳~40歳までの18年間が該当するなら、ある種の後悔があり、無意味に生きる時間を加速させたように思われたから。  
 ゆとりの無い社会では仕方がない?仕事があるから食べる事もでき音楽も聴け恋愛もできる。たぶん数々のオペラや美術や女性、確かにクライバーの「薔薇」を鑑賞し、デューラー「四人の使徒」、マウリッスハイスの誰もいない小部屋で「デルフトの眺望」「ターバンの少女」と対峙できたが、もしかしたら全ては幻覚であり妄想だったのかもしれない。ピアニストは何かにとりつかれたかのように音を鳴らし、彼独自の哲学?華やいだ拡がりのある音色なのに内なる世界に陶酔する。グールドのように右手で指揮をする瞬間も。不思議なのはレヴィットの技法だと、例えば単音であってもクレッシェンドして聴こえてきたり、現実世界では起こりえない音楽が奏でられること。また隣町の教会の鐘の音が静かに響いたかと思えば、春の陽射しを受け風になびく水面がキラキラ輝く。「死に急いでどうする?」と質問すれば「短くてもいい。試練の中にも美しさは存在する。私はそれを感じたい。」と返された印象。
 ジョイスユリシーズ」の大海から川→小川→最終的にはトイレの水。狂乱した女が嘆き呟き(句読点がない)それでもトイレの水に美しさを見出す。バッハ=小川。やはり水のように清らかなもの。
 時間は過ぎ去り、自分が現在第何番なのか理解できないまま、アリアへと突入。
 フランスあたりの名も無き作曲家のアリアであっても、バッハオリジナルであっても、約80分前のリフレインが全く異なる音に感じられ目頭が熱くなった。
 聴きに行って良かった。
 
 以下ご参考までに。