フェルメールの天使

 昨日NHKニュースでフェルメールの絵画を(完成作品に後に誰かが塗りつぶしたらしい)修復していることを特集していた。そこでスマホでテレビを撮影したのですが、素直に「やっぱりそうだったか。」と思ったのです。
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 上の写真は修復前のもの。僕はこの作品を2度鑑賞したことがあって、最初はかつて真冬のドレスデンで誰もいない美術館の中で20分~30分じっと眺めていた。次は10年程前?上野の西洋美術館に来たときだけれど、絵画前の混雑は竹下通り状態でまともに見ていない。仕方がなく何故か空いているフリードリッヒを好きなだけ見つめていた。
 これはフェルメールにしては大きな作品で、そのせいか粗が見え隠れするとドレスデンの時に感じていて、暫くすると手紙を読む女性の後方壁があまりにのっぺりした塗りかただと気がついたのでした。(この壁はどう考えても繊細なフェルメールじゃない。)似たような体験は何度もあってイタリーのルネサンス期の作品に多く、例えばラファエロなんか大半を疑いの眼差しで凝視してきた。誰かが言うには<尊敬の念から上塗りする>・・僕には意味がわからない。
 
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 修復家の地道な作業で細かく上塗りされた絵具を削りとると天使の姿があらわれだしたということ。歴史的な理屈まで知識がありませんが、天使が描かれている=女性が手にしている手紙は「恋文」という証明になるそうです。
 ただ以前から描かれているガラス窓にうつる顔の表情が「困惑」というかときめき以前の少女の表情を的確に捉えていることから、恋文なのだろうな?とは感じていた。
 修復まではまだ何年も必要らしいけれど、全て削りだした時にどのような構成を取り戻すのか興味はつきない。
 ただ、現状(半分修復?)から感じられる印象は、ちょっと絵具が煩い気がしてならない。
 名作に違いないけれど、巨匠といえども全てが完璧な仕事とは思えないのは(居酒屋便所の日捲りカレンダーの何も考えていない詩人「人間だもの」じゃない。)多くの習作がなければあそこまでの技術は獲得できないわけで、フェルメールは数少ない作品しか発表しなかったのではなく「痕跡を消す」作業に人生を費やしたからと感じられて仕方がない。
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 画家にとって天使の存在が己の心を見透かされるような邪悪な存在は言いすぎかもしれないけれど、視線は画家と鑑賞者に向けられている現実は、恋文を認めたのはフェルメールに他ならず、少女の不安げな表情は画家の心を映し出した鏡なのかもしれない。
 恋は盲目。成就しなければ絵画への思いはどうなるか?「痕跡を消せ。」
 ところが、思いとは真逆に完成度が高ければ焼却する作業に努力が必要。
 つまり「捨てたくない。」
 そんなことを思うと、後に天使を消したのはフェルメール自身だったのではないかしらん等と余計な思考が働く。
 「詮索されたくない。」が画家の思いかもしれない。

ニュースを読むとフェルメールの死後に何者かが上塗りしたとあります。
原料などから時代が証明しているなら僕の考えは間違いですが、何故天使だけを消したのか不可解に思う。
別のドラマでも考えようかな。