諏訪内晶子のショスタコーヴィッチ

 久しぶりのコンサート。
 バシュメット諏訪内晶子、国立ノーヴァヤ・ロシア交響楽団
 プログラムはショスタコーヴィッチ祝典序曲・ヴァイオリン協奏曲1番・チャイコフスキー交響曲6番「悲愴」。
 金額が安めだったためS席(13000円)1階7列目贅沢な聴き方。みなとみらいホール。
 平均年齢も若く良い意味で上手な学生団体を聴いているようなイメージで、そうは言っても弦なんかロシア特有の音の厚み、当然のことながらブラスのセクションは壮観な鳴らし方で、それなりに気持ちは高揚し、やはり生のオーケストラはいいな。
 バシュメットはモスクワソロイスツを指揮している時の印象が強いのか、ここまで大規模な曲だと如何にもヴィオラ奏者が専門外の仕事をしているようにしか見えず、最小限の動きなのに大汗かいて真っ赤な顔で一生懸命楽譜を捲りながら難曲と格闘。
 それでも誰かみたいにナルシストではないようで、けして見ていて面白い指揮じゃないけれど真摯に音楽と向き合っている姿は概ね好ましく感じられた。
 それにしても指揮者になりたがるソリストは多いな。それだけ魅力があるのでしょうね。気持ちは理解できますね。なにをしてもいいと神様に許されたら私もやってみたい。
 でもナルシストに感じられない人がどうして指揮者になったのだろうと、素朴な疑問を持ちました。
 ヴィオラの時は怖いくらいの人があまりオーラが無い。
 さて、この演奏会なんと申しましてもバイオリン協奏曲が素晴らしく、もちろん諏訪内さんの魅力なのですが、短絡的な感想を記すなら「美しい人は得だな」、でも私の耳が視覚より敏感なら彼女の演奏は変化したと思う。
 かつてプレヴィン指揮で同曲を聴いたときは、世間の言う理想的教育機関を修了した才女の紡ぎ出す端整な音に魅了されたのだが、何処か羞恥心があり道徳的で愛欲を誘発されるような感情は抱かず、そういう曲だと考えてもみなかった訳ですが、今思えば音楽そのものに耽溺できなかった。
 だが今回は道徳的な権威が必ずしも合理的手段ではなく、時に暴力的なくらい荒々しいアプローチで社会を踏みにじり、アナーキズムを優先させる。
 特殊な精神世界に埋没した大人の女性が所謂公共の場で、言葉は悪いがグロテスクな表現をするのだから相当エロティックである。
 美音とは極めて健康的な快楽、私は気持ちを集中して感触を確かめた。
 ただ残念なことは先に記した伴奏者で、音は大きいがこのオケは如何にも若く、熟成されたバイオリン音符の周りをなぞっているようにしか聴こえない。
 指揮者の問題というよりオケのせいと感じるのは、視覚聴覚よりも嗅覚の問題に思われる。
 キーロフやモスクワ辺りの伝統ある団体を前のほうの席で聴く時、場合によっては目に痛い程の体臭が漂ってきて、私にはある種特別な感覚としてロシア音楽とリンクしていたのに、気のせいであり関係ないと思われてもいい、今回は全くそれが無かった。
 目指している体制が伝統の其れではなく、最近流行のライトな世界観なら仕方ないか、それでもショスタコーヴィチは前者であってもらいたいし、或いは音楽に臭いを持ち出す感覚の私がおかしいのだろう。
  演奏会は諏訪内さんがすべてで、前半だけでくたびれてしまい、後は感動伴わず。
 悲愴は聴いたことの無いスタイルの演奏。
 もしかしたら室内楽的に纏めたい指揮者の考えによるのかもしれないが、少しドライブし過ぎかな。
 最後がフライング拍手も無く長い沈黙で安心。
 そういえば第2楽章が異常にテンポが速かった。
 何故かアンコールがブラームスとラテンのティカ・ティカ?
 国立のロシアオケも変革の時代なのでしょうか。