村上春樹1Q84とグールドと吉田秀和

 数日にわたり緊張感の中での仕事が続き疲労が溜まりはじめています。
 帰宅時に美しい月を見ながら、それが無くなりそうなギリギリの三日月と金星が絶妙のバランスでして、何処かで見た風景だなと感じ、後で思い出したらロッテガムの絵だったみたい、自分で可笑しくなりました。
 月については不思議な話を持っているので、そのうちご紹介するかもしれません。
 さて前回1Q84とバッハの関係について書きましたが、間違いがあり一部内容を修正いたしました。
 修正後ですが、前回のブログをご参照いただけると感じは解ると思います。
 実はグールドのゴールドベルクが発売されたのは1984の前年だったような気がしているのです。
 グールドは晩年に二度目の同曲を録音し当時かなり話題になりましたが、他界したのは1982年の10月、最後のピアノ録音が一ヶ月前の9月Rシュトラウスソナタです。
 このソナタソニーから発売されたのは1984だったので、どうやら私は混乱したみたいです。
 改めてシュトラウスを聴きながらCDにある吉田秀和先生の解説を読み直し驚いたのですが、「グールドをきいていると、私は時々、自分のいるのが生死のどちら側か、よくわからないような気がする。」というもので、それはそのまま1Q84の世界だと気がつかされてドキッとしたのです。
 ますます行き過ぎた想像で恐縮なのですが、村上春樹氏はこのディスクを聴き吉田先生の文章も読んでいるなと感じられ、それが今回偶然導き出された私の考えです。
 更にもう少し追求するならば、小説には2つの月が出てまいりますが、これはグールドのデビュー盤と晩年の2つのゴールドベルクに準えた象徴的存在なのではないかなと感じられるのです。
 主人公の天吾と青豆の年齢にも共時性があり、同級生だった2人が生まれた西暦は小説から判断すると1954か1955。1955といえば最初のゴールドベルク、つまりグールドのデビュー盤に符合するのです。
 吉田先生の解説ではこんな箇所もあります。
 「音楽が彼のすべてを吸いとり、彼の方でも自分の知性と感性、それから魂のすべてを上げて、音楽に集中的に捧げてきた。そのあとには何一つ残っていなかったのである。一度そうわかってみると、これが彼の最初のレコードから最後のレコードまで、一貫して流れているものだと知れてくる。その意味では彼のすべてが ゴールドベルク変奏曲 一枚にあり、あとのレコードは、それをくりかえしていたものにすぎないともいえなくない。」
 1Q84の主人公が生きた世界は、グールドの音楽家として生きた時代に完全に合致し、確かに天才ピアニストは1982年の10月に他界したもののコンサートをドロップアウトしていたのだから、我々はレコードでしかグールドを知ることができず、最後のピアノ録音が発売された1984まではその死すら実感の伴わないものだったことを思い出した。
 つまり発表されていない録音がある以上、私はグールドがまだ生きていると思っていたし、演奏会をしてきた他の音楽家が死んでも絶対に生まれえない感覚だった。
 そして小説の主人公は、何も31章のゴールドベルクにだけ置き換える必要もあるまい、グールドの「録音した」平均律やインヴェンション・パルティータ・フランス組曲・或いはモーッアルト、ベートーヴェン等の時代を苦悩と共に生きていたのである。
 私は今回考えすぎたのかもしれないが、昨夜のロッテガムみたいな月と自分の間違いが、新しい解釈を提供してくれた。
 しかし、これは解釈なんてものではない、ゾッとするくらい確信に満ちた私の 「答え」 である。