ドヴォルザーク交響曲の番号 レコード③④⑤

 新宿でドヴォルザーク交響曲の古いレコードを3枚(2番、4番、6番)買ってきたのですが、帰宅し聴いてみたら2番が7番で4番が8番で6番はたぶん6番のまま?だった。
 何のことだか意味不明でしょうけれど、つまり私が詳しくないのがいけないのですが、ドヴォルザークって9つの交響曲があって、番号付けが何時だかきっと変わっていたみたいで、今の7番は昔の2番で、今の8番は昔の4番で、6番らしき曲は今日初めて聞いたから6番は、これなのだろう、という意味です。
 しかし思い返すと、買わなかったけれど5番のレコードに「新世界』らしき横文字があった記憶が過ぎり、そうなると昔の5番は今の9番だから、昔の3番と昔の2番と昔の1番は、或いは6番だと思い聴いていたあの曲は今の何番になるのか解らないのだから、私は混乱している。
 昔の2番と思われる今の7番はイッセルシュテットハンブルク放送で、昔の4番だと思われる今の8番はバルビローリ・ハレで、6番らしき曲はセーニャ?チェコフィルのもの、全部モノラル録音。
 予め調やら作品番号を確かめておけばよかったのですが、素人は番号で覚えるし、まさかこんな状況だとも知らないのだから仕方ない。
 私は何故かこれまでドヴォルザークをきちんと聴いていなくて、有名なチェロ協奏曲や室内楽等は別にして、交響曲は今の7番と8番と9番しか知らないまま生きてきた。
 そこで、もう番号はどうでもいいけれど初めて聴いた6番らしき曲の感想は、やっと本題に入れるが、結論から申し上げるなら、ドヴォルザークマニアに怒られますけれど、とても変な曲だ。
 良い言い方するならロマン的民族主義の叙情なんだろうけれど、私にはその民族主義よりも、かなり手前の随分と乱暴な音楽に思われた。
 例えば関わりたくない人間模様に無理やり巻き込まれ、挙句の果てに部落の喧嘩と祭りに嫌々参加させられ、我慢しながら強いお酒を飲まされたような気持ち。
 しかも途中でプレーヤーのモーター回転がおかしくなりはじめた。(因みにプレーヤーはもう一台ある)
 それでも、今回のレコードは私にとって視野を広げるチャンスと考える。
 1回聴いたくらいで何の判断もできないし、番号の整理も必要、知らないままでは幾らなんでも空しい。
 ボヘミア地方の音楽には、もしかしたら人智を超えた力が宿っているかもしれない。
 それに、いくら好きでもゲルマン系ばかり聴いてきたことで、自らの感受性を知らず知らずのうちに擦り減らしてきたかもしれない。
 冷静に見つめよう。この音楽は現代社会に在りがちな錯乱や混沌、曖昧な思想めいた強制も無いから、全てはもっと身近な喜びだったり悲しみのある現実的な感情の機微であり、即ちそれは生活の一部なのだろう。
 人間は誰もが生を授かった地で成熟衰退を繰り返し伝統を形成する。なんだか厄介に感じられるけれど我々だって同じ、ただ彼らの文化に馴染んでいないだけと思う。
 
 今もう一度聴いてみた。
 あまり精緻な音楽には感じられないけれど、乗りかかったのだから交響曲は全部聴いてみます。
 同じタイミングで長年愛用してきたサンスイのモーターも擦り切れた。
 これは完全な寿命と思う。
 今日を「ドヴォルザークの日」にします。