凄い演奏でした。サロネン指揮フィルハーモ二ア管。

 サロネンフィルハーモニア管弦楽団は想像以上の素晴らしい内容。
 評論家の先生がどのように書くのか解りませんが、私にとってはカリスマ性の在る偉大な指揮者と感じ、これだけの演奏はなかなか聴けないと思いました。
 お世辞でも何でもなく本当に凄い演奏。
 これからは指揮活動を減らし作曲の時間を増やすと何かに書いてあったけれど、オープニングは自作の小品で、小品といっても編成の大きな曲、すいませんパンフも買わなくてタイトルも忘れてしまいましたが、北欧の先人作曲家の流れを裏切らないコマーシャルナイズとは無縁の明瞭で大胆、それでいて神経質なくらいの精神性を兼ね備えた世界。
 これまでにどの位の作曲数があるのか知りませんが、ケージ、シュトックハウゼン、武満等が社会に提示した少し前の試みとも間逆の、所謂我々クラシック音楽好きが普通に馴染みの在る楽器だけを使用し、何れは長大な交響曲まで堂々と創作してしまうのではないかと、大いに期待を持たせた。
 秋に小澤の代役でウイーンフィルを振る予定だが、もし今後日本の指揮台に立つ頻度が減るとしたら残念。
 それでも自作を聴きながら「これなら仕方ないな」と納得するのは、やはりサロネンは寒い国の生まれ、きっと昔の北欧は季節により食料事情に落差が生まれ、恐らく陽差しの有り難味を他民族以上に敏感に察知し、開放的になれないある種独特の内向的性質、指揮姿こそ大胆なものの繊細で素人が見ても解りやすく、自己主張以上に調和を優先させ(それは機械みたいなテクニックで時に芸術性が削がれつつも聴衆を魅了するヒラリー・ハーンチャイコフスキーで最もバランスよく発揮する)独自の世界観を構築するのは、哲学的考察をしなければ生きていけない北欧特有の血の気質に由来すると考える。
 それが確かな形で証明されたのはやはり後半のシベリウス2番で、雄大な自然の情景描写である以前に、妙な「実利を離れ崇高な目的に向け歩む」、人としての心の有様を継承していくことこそ「生きる証」ではないのかと語りかけてくるよう。
 世俗的世界に引き込まれ無用な情報が氾濫している社会では真理に到達できない。
 気どったヒューマニズムだけでは世界は変わらないのだ。
 アンコールでの「メリザンドの死」は極端な弱音で始まり、表題に限った道理ではなく、誰にでも出会いがあり別れがあるように、喉の奥に小石を詰まらせたような悲しみ慟哭を感じ、それでも人間本位というより、まるで厚い雲の上の太陽への憧れ、或いは水のせせらぎを想起、所詮我々は自然の一部にすぎないと思い知らされる。
 明るい曲の「行進曲風」だって同じことで、一期一会の出会いに感謝し、爽やかな笑顔の中にも祈る気持ちを忘れないようにしたいということ。