小山敬三画伯のアトリエと子供の頃の記憶

 汗をかきながら帰宅したのが夕方、その後うとうとしてしまい気がついたら外は雨、大地が潤い幾分涼しげ、子供の頃の夏はこんな感じだったよなと思う。
 私はこれまで神奈川から出たことがないのだけれど、鎌倉に来たのは比較的最近で、前は横浜その前は座間、7才の時までの幼少時は茅ヶ崎にいた。
 座間や横浜は好んで住んでいたわけでもなく「人生のおまけ」みたいな存在で、こんな表現したら土地を愛する人から非難を受けてしまうが、座間は近くに極東司令部の米軍キャンプ、厚木飛行場から飛び立つファントム戦闘機のテレビや電話も聞こえなくなるほどの轟音に悩まされ、横浜は国道沿いしかも交差点の横だったのだからこれまた耳を劈く暴走族が騒ぎまくり、いい印象があるはずもない。
 いくら便利でも我慢して横浜にいつづける理由も無く、静かな鎌倉に来た。
 私は季節と文化を取り戻した。
 そう考えると僅か7年の茅ヶ崎が直接的に今の生活に繋がっていることに気がついた。
 小さな借家だったのだけれど庭があり、通りからも程よく離れていて静か、子供の足でも西浜海岸まで歩いて数分の立地。
 今でこそイメージの欠片も無いが、「我は海の子」なのだ。
 近所斜向かいに、小山敬三画伯の自宅があり大きな庭は数百の松の林、太陽はあの細い葉のひとつひとつから零れ、あれは錯覚なのか眩しい夏の光は丸く幾つもの色が虹のように眼球に入り込み、ひっきりなしに鳴く油蝉との調和が懐かしく思い出される。
 子供にとって偶に見かけた画伯は近所の優しそうなお爺さんで、それでも誰から聞いたのか「日本を代表する絵描きさんだから失礼のないように。」で、近所の友達山田ヨシヒロ君なんか「ボールが絵の先生の家に入っちゃったじゃん。」と半べそ。(泣きべそヨシヒロは筑波大の院を修了しどっかの技術者になったと噂で聞いた)
 あそこに入ったら最後、ボールは絶対手元に戻ってこない感覚。
 これが湘南の方言「・・・じゃん。」の正しい使い方だと感じられるのは、広いようで実際には限られた子供の世界は大人たちの不用意な発言により極端に狭められ、周りは壁だらけで随分と不自由、壁の向こうに何があるのかなんて考えもしないし、その独特の閉鎖性と絶望、同世代の仲間に対しての批判と共感が入り混じった、実は自分に向けられた励ましでもあるのだ。
 ちなみにこの時、我々は蚊に刺されながら地べたに座り会議を開きああだこうだと大した話もしていないだろうに、それでも背丈以上の青い金網の柵を乗り越えボールを探しに行く結論に至った。
 つまり今思えば俺達は壁をひとつ乗り越えた。
 見つかったのかどうか覚えていないが、私は広大な庭の沢山の松が比較的柵に近いところに植えられていて、想像以上に内側の空間が広いと知った。
 庭の中央部にはガゼボみたいなちょっとした屋根つきのベンチがあって、そこから良く見えるアトリエである木造邸宅の白い壁は所々ペンキが禿げ擦れていたけれど、夕陽に反射しオレンジ色で美しく思われた。
 「絵描きはこういう家に住むんだ」と思った。
 あの邸宅は現在信州小諸に移築された。
 壊されなくてよかった。
 小山画伯は古城のほとりに生を受け藤村の勧めでパリに留学、帰国後茅ヶ崎にアトリエを構え画業に専念、その後文化勲章を受章された。
 実はすっかり疎遠だけれど、偶然にも小諸には父の従弟が住んでいて私は2度訪れたことがある。
 懐古園の近くの縁側が長い平屋、あの時も夏だった。
 温暖化が真実か私は疑わしく感じているのだけれど、環境や気温の問題ではなく、子供の頃の夏はもっと暑くて涼しい風がふいていたと思い出した。