ジャリの「馬的思考」を読んでいます。

 今年の夏は三度花火を見た。
 最初は7月の鎌倉、二度目は伊豆を訪れた時に偶然見た狩野川、そして昨晩の逗子。
 それぞれ特徴がありますが昨夜が最も華やかで心に残りそう。
 去りし夏を追うかのようになんて日本的情緒よりも、轟音海山にこだまし色彩豊かでド派手がいいと納得するのは、心の中に破壊の美学みたいなものがあるから、「もっと大きく響きわたれ」と念じてしまい如何することもできない。
 時々思い出すのですが私には元々そういう部分があって、例えば演奏会で過剰な大きな音に期待をしてみたり、テレビでスポーツを観戦していたら無意識のうちに勝っている方を応援していたり、野良猫に大量のマタタビを与えたくなったり、線香花火を束のまま火を点けたくなったり、燃えるゴミの日にそうでないの出したくなったりと、性格の悪さを露呈しているみたいで嫌だけれど、そんな自分がいるのだから仕方ない。
 しかし最初から全て派手がいいなんて思ってはいなく、かえって益々不健全かもしれないけれど徐々にじわりじわりと崩壊に進む過程が好ましく、崩壊と表現したら破壊ではなく破滅の精神みたい、善の必要性を認識しつつ、つまり道徳の反発みたいなもの、所詮禁止事項なんて犯すために存在するような気がする。
 それでも私は真面目な性格だからなかなか一歩を踏み出せないでいるごく普通の一般市民である。
 「超男性」を書いたことで有名なアルフレッド・ジャリの「馬的思考」を読んでいます。
 川端康成の「掌の小説」みたいに短い話が沢山入っている本。
 小説ともエッセーともつかないアナーキーな79話で、ブルトンの「シュルレアリスム宣言」より遥か昔に社会科学と無縁の立場で暴力的表現を遂行し、ダダな生きかたをしていたのだから驚いている。
 100年以上前なのに「タイムマシン」について考え、独創的な殺人を賞賛されるユーモア「殺人趣味の会」、「乗合馬車」は乗客が乗換えを通じ生殖を営む、正気と陶酔、幼児性と老練、愚劣と神聖、言葉遊び、感じとしては色々なタイプの花火を見ているようで面白いのです。
 電車の中で移動中に一章づつゆっくり読んでいます。