ロ短調ミサ ⑩
バッハ「ロ短調ミサ」をながし続け、時間を追うごとにその美しさに魅せられてゆく。
自分のコンディションに関係なく受け入れてくれる神聖な世界に耳を傾けながら、今まで随分と色々な音楽を聴いてきたけれど、もしかしたらこれこそ求めていた世界と思うのも大袈裟な話ではあるまい。
全部の旋律が頭に入れるのにもそう時間は掛からないかも、この調子なら敬遠してきたミサ関係を吸収してしまうチャンスみたいで、「マタイ」「ヨハネ」・・聴いていこうかと思います。
そういえば先月、沼津の名曲喫茶「あずみ野」に行ったとき、マスターが帰り支度を始めた私にしきりと
「わかりました。必ず聴きます。」
この時のやり取りは夢に出てくるくらいのインパクトで、昔「ドリフの大爆笑」で神様のギャグを志村けんがやっていた時の顔と髪型みたいなマスターだから、以来タワーなんかに行っても後ろの方から「メンゲルベルクを聴きなさい。」と囁かれている幻聴が起こり、神様の言葉を振り払うようにアーノンクールを買ったのだ。
だいたい今の時代バッハと考えたら、どうしてもピリオド奏法を選び聴き、その後に以前の名演をチョイスしたくなるもので、それでもいつか中古屋さんでメンゲルベルクを見つけたら仕方が無い買うとしよう。
なんといってもレコードでなければいけないのですから私は求めるのではなく出会いを待つ。
しかし受動的立場ではいつまでたっても目的に到達することはありえず、本来出会いとは自らタイミングを見定め線を引き心空にし余分な油分を洗い流し形状とした残った物質と考える。
リヒター等の名演があることは知っているけれど、潜在意識にメンゲルベルクが強くある以上聴いた聴いていないに関わらず私は他の演奏家より早くメンゲルベルクに出会っていると考え、正確には自ら頁を捲るだけである。だから聴いてもいないのに、やたらと飛躍する分厚い音の固まりみたいなバッハが頭の中を駆け巡る。
つまり既に出会っている、聴いていると表現したら突飛であろうか。
3日間どうしようもない精神状態でしたが漸く回復はバッハのお蔭、丸谷才一さんも読み終わり、夕方隣町の古本屋に出かけ、「シューマン・愛と苦悩の生涯」若林健吉著、「繰り返し聴き、繰り返し読む 新音楽展望1997-1999」吉田秀和著、「サド侯爵 新たなる肖像」シャルタン・トマ著 田中雅志訳を手に入れた。
「シューマン・・」はクララとの手紙が多く深刻なやりとりが心を打つ。
吉田先生は大半が既に読んだ内容だけれど、雑誌の立ち読みだったりしたのだからきちんとした形で所有しておきたかった為。
「サド・・」はなんだろう、澁澤さん以外の視点で読みたいと思ったことと趣味の問題。
「ロ短調・・」はミサに慣れていなくても都度我慢してでも最後まで聴きたい。
そうして初めて「我らに平安を与えたまえ」穏やかな安らぎを獲得できるのです。
煙草屋さんに行列、初めて見た。