人生の大きな体験。私はアーノンクールのロ短調ミサを聴いた!

 アーノンクール指揮、ウイーンコンツェントゥス・ムジクス、アーノルト・シェーンベルク合唱団。
 バッハ「ロ短調ミサ」 (26日サントリーホール)を聴いてまいりました。
 まだ数日公演が残っている為、まず結論から記しますが、生涯の中で一度聴けるか聴けないかと思われるほどに偉大な演奏であり、チャンスがあるのなら週末の「天地創造」か月初のモーツァルトに出かけ実演に接するべきであると、音楽好きには是非ともお勧めしたい。
 もしかしたらチャンスが・・等というレベルの話ではなく仕事や学校を含め如何でもいい用事があるのなら、全てを放棄してでも聴いたほうがいいと、お金に問題があるのなら借金をしてでも会場に足を運ぶべきであるくらいに真剣に受け止めていただきたい。
 対比の対象にもならず愚かですが、クライバー「薔薇の騎士」・フルトヴェングラー「第九」・グールド「ゴールドベルク」クラスの音楽が目の前にあるのですから、これは大変なことだと思うのです。
 最近は演奏家のキャンセルが多くやきもきしてばかりいましたが、ステージに現れたマエストロはご高齢にもかかわらず、しっかりと前を見つめ、自信と確信に満ちた気品ある表情を浮べ「私は約束を守るために此処にきた」とでも語りかけてくるよう。
 「キリエ」から普段の演奏会ではまず生まれえない独特の緊張感、ピリオドは勿論のこと通奏低音のオルガン、管の美しく柔らかな古楽の音色に精神が支えられ、合唱はまるで天から降ってくるみたい、既に開始と同時に聴き手は大伽藍に入り込んでしまった無力な信徒であり、私を含め聴衆の大半がクリスチャンと無縁であろうが、これだけの作品を生んだ土壌に少しばかり嫉妬を覚えるほど。
 つい先日武満を聴き日本人である誇りを獲得したばかりなのに、西洋音楽の重みが一石二鳥に解決できないのは人々と教会の結びつきにあるように思えるのですが、それでもアーノンクールが語るには「芸術的に見ても宗教的に見ても、どちらに当てはまるとも言い難い作品」なのだそうだ。
 どの教会暦にも当てはまらないがその理由のよう。
 「感覚に訴えるような敬虔な作品なのでプロテスタントの教会音楽としては扱えない・・そこでボーイソプラノではなく女声のソリストを採用した」
 つまりカトリック的な要素を重視したために混声合唱にしたみたい。
 確かにじっと集中して聴いていると成熟した大人の感性が音楽そのものに寄与していることに気がつくし、あの長い作品を少年合唱だったなら体力的にも辛く感じられ何処か聴く気持ちを削がれる危険性があるのではないだろうか。
 彼らは、オケにしても歌にしても個々に自らの使命を全うする職人であり、いつもなら例えば金管が音を外さないかなと心配したりするのに、そんな小さな不安など微塵も感じられないのですから、日々の修練に頭の下がる思い。
 第11曲のバス「アリア」で奏でられる古楽ホルンなど驚くほどの匠の技を披露してくれた。
 音楽も上手くできているのは、単純な話ですが、第7曲の合唱「我ら汝に感謝を捧げまつる。大いなる汝の栄光のゆえに。」が、二部である「二ケア信経」の第27曲(正確には四部?)つまり大曲の最後の合唱で美しき主題がリフレインされる時、聴き手は無意識のうちにサブリミナル効果の恩恵を受け、「我らに平安を与えたまえ。」バッハの音楽は祈りとして完結する。
 その時私は、生きていて良かったと泣きそうになるくらい感動した。
 マエストロはもう日本には来ないらしいが、まだお元気ですし、次は「マタイ受難曲」をとおねだりしたくなりました。
 最初の木枯らしの日。