名演!アーノンクールの「天地創造」

 土日は馬車馬の如く働き、漸く心にゆとりができまして、29日(金)演奏会の感想を書きたいと思います。
 ヘンデルの後を受けモーツァルトの死後、ハイドンにより完成したオラトリオ芸術の最高峰と表現してもいいでしょう西洋文化最大のテーマ「天地創造」 N・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスアーノルト・シェーンベルク合唱団、天使ガブリエル/イヴがドロテア・レッシュマン(ソプラノ)、天使ウリエルをミヒャエル・シャーデ(テノール)、天使ラファエル/アダムがフローリアン・ベッシュ(バリトン) サントリーホール19時開演。
 「ロ短調ミサ」にクラクラするほどの感動を覚えた私は、どうしてもハイドンが聴きたくなりオークションで安い席を落札、いそいそと赤坂に出かけたわけです。ビル風冷たく今年初めてのコート。
 受付に預けていただいていたチケットを確認したら、なんとP席の一列目で合唱ソプラノの真後ろ、美しき女性が目の前なのはいいのですが、座っていた彼女達が立ち上がったら皆ワルキューレみたいな体格で指揮者がよく見えなかったのは計算外、仕方なく曲がった体勢で歌手の隙間からアーノンクールを眺め腰が痛いのを我慢しながら鑑賞。
 どういうわけかお客の入りが悪く、半分ぐらいしか席が埋っていない事に驚き、日本のクラシック音楽ファンはいったい何をしているのだろうと残念に思いました。
 兎に角ガラガラですから、休憩時間後は2階正面1列目に移動。しかし、正面があんなに良いとは思わなかった。
 「天地創造」は完全なる無、即ち「渾沌」から始まり、最初のC音(ハ)が全合奏で鳴らされ、長調とも短調とも判断できない不安な出だし、その後も形式さえ曖昧な和音が連なるけれど、数分後に輝かしいC音に到達「神は地上に光をもたらした!」最初のフォルティシモはハ長調この瞬間のマエストロは恐ろしいほどの形相、まるで目玉が飛び出すのではないかなと思うくらい魂のこもった一撃、初演当時の事など私には理解できないが、このような音だったのかなと想像させてくれた。
 私は聴きながら「世俗的」とは?と思考を巡らせた。
 聖書のお話にかわりはないけれど、バッハとハイドンの間には音楽的に随分と変化があって、アリア等は各所にモーツァルトの影響があるのですが、何処かのタイミングで宗教的なものと世俗的なるものの決定的な線引きが存在しているような気がして仕方がないのです。
 つまり徐々にそうなったのではなく、何時か発信された作品によりそうなったという考え方。
 論理的にではなく、いつもの勝手な思い込みなのだけれど、そのタイミングは先に記したハ長調のフォルティシモの部分だったとしたら、あの一撃が、つまりモーツァルトではなくハイドンにより西洋音楽は変ったということ。
 今回の演奏以外の「天地創造」では全く考えもしなかったのですが、アーノンクールの計算されつくされた理論に斬新な即興性が加わることで、音楽が楽譜を超えてまるで自由に羽ばたく鳥の如く有機的に機能し感覚として人々の心に入り込むみたい。
 どちらが上とか下とかの話ではなく、「ロ短調ミサ」のように敬虔な気持ちにはならないけれど現代に続く橋渡しは誰かが何処かで犠牲を祓わなくてはならないように感じ、モーツァルトだったならあまりに遊び心が強すぎて一般にいう高貴な響きの自己犠牲と無縁に感じられ、どうやら命を賭けたのはハイドンだったのかなと、因みにこの作品では人間と神の関係は良好であり三部アダムとイヴのシーンでも「悪い誘惑に気をつけるように」と天使ウリエルにより語られる程度で全ては謙虚な姿勢のまま、それでも偉大な作品には必ず隠されたテーマが存在すると思うのです。
 ふと思ったのは先日救出されたペルーの炭鉱事故で、NHKのドキュメンタリーを見ていたら、彼らが地上と連絡が取れ物資が供給されるようになってから諍いが起こり始めたという、まるでアダムとイブみたいな話なのは、
単純に電話の時間の長さだったり、テレビのチャンネル争いだったり、全てが物欲に起因する出来事で、最後に救出されたリーダーが祈りの時間を設定することで沈静化させた。
 プログラムにアーノンクールのインタヴューが掲載されていて、モットーはという質問に対し「歴史における進歩はいかなるものでも喪失をはらむ。」と回答している。
 進歩が起こるときには気がつかないそうだが、改善される分は必ず喪失するそうである。
 つまり我々は普段の生活で沢山の喪失を経験し続けていることになる。
 アーノンクールの信念を曲げないでこだわり続けた人生が、音楽を聴く幅を提示し、どれだけの潤いを与えてくれたのか考えた方がいい、ついこの前まで我々はピリオド奏法でさえ受け入れていなかったのですから。
 改革には相当な情熱が必要で、仮に作曲家ハイドンが犠牲を持ったのなら、演奏家で同じ土壌に立っている人は間違いなくアーノンクールだと感じるのです。
 音楽を社会変動に乗じ改革を進めた作曲家は後の時代のワグナーがいたと思い出されるけれど、「天地創造」と「マイスタージンガー」に共時性を見出しドキリとしたのは第三部の始まり、天使ウリエルのレシタティーボ「・・誘惑に・・」の前のくだりで、翻訳を紹介すると
 「薔薇色の雲を破り 若やいだ 美しい朝が 現れる  天からの清らかに調和した調べ」
 これが「マイスタージンガー」第三幕、若い騎士ワルターにより歌われるエヴァへの愛を誓う「優勝の歌」で
 「朝は薔薇色に輝き 大気は 花の香にふくれ えも知らぬ 快さに満たされ 庭は我を誘う」なのですが、私を笑っていただいてもいいけれど、何だか偶然に思えなくて、エヴァはイブ(Eva)で同じだなとも気がついた。
 実際にワグナーが「天地創造」から影響を受けたのか解りませんが、知らなかったはずはないでしょう。
 もっと細かい分析をしたら面白いアナグラムが存在しているかもしれません。(ちなみに「anagrams」は「ars magna」ラテン語で「偉大なる芸術」になる。)
 私がそんな見かたをしたのには理由があって、アーノンクールのインタヴューの中に「今は計画も体力も無いがトリスタンとマイスタージンガーは取り組みたかった・・」そうで、これは知らなかったので驚いたんだけれど、休憩時間にプログラムを読んだから妙な思考が働いたのでしょうか。
 時々マエストロにはコメディアデラルテやプルチネルラのような喜劇的な知性を感じるのですが気のせいかな。
 演奏は素晴らしく、バッハに続いてこれまた偉大な音楽が鳴り響いたのですから、私は幸福でした。
 いずれにしてもアーノンクールの演奏は刺激的で考えさせられる。
 最後の曲で、合唱団から一人呼び出されるようにソリストと並び、つまり独唱4人の形で「アーメン」が歌われた。
 あの形にも意味があるのでしょうが、呼び出されたのは日本人に見えて、この合唱団には数名日本人が所属しているのですから驚くばかり、ヒューマンなパフォーマンスだったとしても大いに結構、観客を包み込むような主への讃歌はいつまでも忘れられないでしょうし、マエストロが人生の最後のツアーに日本を選んでくれたことに感謝、この経験は聴衆にとって大切な宝物です。