ネルソンス指揮ウィーンフィルを聴きました
今回は随分と色々ありましたので仕方が無いのですが、これがウィーンフィルの演奏会?と疑いたくなるほど空席だらけで、恐らく名門オーケストラ初めての少ない聴衆だったのではないでしょうか。
コントラバス奏者の事故死で追悼の意を込めバッハが演奏されると話がありましたが、単なる噂だったみたいで、若く溌剌とした長身のネルソンスが小走りに笑顔で登場したので「これはモーツァルトが始まる」と認識し、友人が前日に電話で教えてくれた「G線上のアリア」はいったいなんだったのだろうと、聴く気持ちになっていたので妙に明るい指揮姿と旋律に戸惑ってしまいました。
今振り返ると別の意味での戸惑いもあって、JR川崎駅で降りて夕方の雑踏を潜り抜け劇場に向かう時に、ここにウィーンフィルが来ている実感がどうしても持てなくて、音楽の町にしたい行政の思惑とは異なる、ここからは競艇や競輪場や風俗街が近くにあって、昔はいつもお客の少なかった寂れた野球場もあったなと、それを否定しているのではなく、川崎特有の都心から少しだけ離れた喧騒と時代特有の友情が育めたような「憩い」が、何時からか無理やり文化?をねじり込んだような錯覚を感じたのです。
他の音楽なら気が付かなかった事も今回感じたのは、やはりウィーンフィルは特別の団体であり理想的な音色だからで、特にモーツァルトが顕著に思えるのはクラシックを覚えたころにFMで録音したのが同オケだったから。
陰と陽の関係? 私には対比対象としてベルリンフィルを想起してしまう。
ネルソンスは悪くないと思いました。
いかにもヤンソンスの存在が彼の中で大きくて、きっとそれ以上にクライバーが好きで時々後ろの手すりを掴んだり指揮棒を左手に持ちかえたり、繊細な時は棒を袖に隠して指と顔でイメージを伝えたりと、それでも憧れの巨匠みたいにかっこよくいかなくて、でも一生懸命だからオケも協力的でコンマスのキュッヘルさんが笑顔になったりして面白い。
33番は細かく強弱をいじり過ぎな感じがしましたけれど、ハイドンは一番楽しく聴けて、それでも先日までのピリオド奏法が意識にこびりついていたので随分響きが違うなと単純には驚きましたが、でも良かった。
「新世界から」は好みは別にしても、よくぞここまでオケを鳴らしたと私は関心し、ネットで読んだ誰かの書き込みに大きな音をウィーンフィルに求める違和感みたいな表現がありましたけれど、意味は良く解るしその通りなのだけれど、若い指揮者なのだからあら探ししても自分が虚しいだけですし、感覚的に「もっと鳴らせ!」と願っていたのも事実です。
それでもどのような瞬間もやはりウィーンフィルは素敵で昔から求めていた音で、てきとうな時もあるけれど私には充分です。
最後はスタンディングでカーテンコールでしたから皆が満足したみたいでした。
私は少しだけその状況を醒めた気分で眺めていた。
そういえば33番の第2楽章の時に地震がありました。