11・10(W・メスト、ウィーンフィルの演奏会)

 W・メスト指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団演奏会に行ってきました。
 (サントリーホール11/9 19時開演。LA3列15番席で鑑賞。)
 ワグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死、ブルックナー交響曲第9番
 若干空席がありまして、九割程の入りだったでしょうか。
 今回、皆が心から音楽を楽しもうとしている淀みの無い心で整理された空間なのは、先日の「新世界から」だって名曲には違いないけれど、気持ちを落ち着けて特にブルックナーウィーンフィルで聴くという神聖な思い、そいつが開演前から熱気となり会場を包んでいる。
 単純に音楽好きばかりが赤坂に集結した印象ですが、1階2列目にどうみても小学生らしき男の子が1人いて隣はお母さんなのでしょうが、息子に3万円以上のチケットを買える生活環境を勝手に想像し、それだけで目まいを覚えたのは、私は10代の時にウィーンフィルを初めて聴き、アルバイト代をつぎ込み、忘れもしない1万8千円のS席、あの響きの悪いNHKホールで(当時は良い音のホールだと信じていた)マゼールの振った豪快な「英雄の生涯」、あれから音楽に向けられたピュアな精神は何一つ変わっていないような感じなのだから、それでも将来は平気でS席の常連になる裕福な大人になるとイメージしていたのに、いまだに私は安価なチケットを求め右往左往しているのだから、これは人生の一つの結果であり、恐らく宝くじでも当たらない限り死ぬまで良くてもこの辺りの席なのだろう。(その子は9番2楽章あたりから眠り始めました。ざまあみろってんだ!)
 さて、肝心の演奏ですが、悲しいかな「ウーン?」如何した訳か全く感動しなかったのです。
 理由は三つ考えられるのですが、一つは自分のコンディションが悪かった。もう一つは演奏に問題があった。そしてもう一つは良い演奏にもかかわらず波長が合わなかった、である。
 演奏はウィーンフィルそのものであり、なかには部分的なミスを指摘する人もいるでしょうが、悪くなかった。
 そして私は調子が良かったのだから、たぶん三番目の波長の問題であると思われ、そいつは過剰に期待してしまった指揮者W・メストの表現に由来するとしか考えられないのです。
 でも、飽くまで個人的感想であり全体的でないのは、どう考えてもまともな音楽が築かれていたのだし、素晴らしいと感じた人がいても何ら不思議ではなく、寧ろ都会的で洗練された演奏だったといえる。
 それでも最初に気になったのは「トリスタン」での淡々としたテンポの速さである。
 速い遅いは直接的に音楽の質とは関係ないと私は信じていて、核になるポイントさえ抑えていればテンポなんか如何でもいいのですが、どうも、すたすたと消化されるように奏でられたように思われた。
 これは非常に厳しい戦いの音楽であると思い続けてきて、今でもこれからもそうだと信じている。
 とりわけ「トリスタン」に思い入れのある立場にあるので敢えて指摘したいのは、致命的な傷を負い別の世界に入りかけているのだけれどイゾルデに向けられた強い思いがあるだけに完全に不幸とはいえず、悲劇的な運命ではあるけれど二人は堅い約束を交わした仲であり、限られた空間内であっても其処では自由が行使され、彼らに与えられた事実こそ人生に意義深い特質を与えている。
 ワグナーを知る人は此処に大きな力ある証を確認し、最早この世の必然性等には目もくれず、寧ろ「証」に真の必然性を見出す。では真の必然性とは?それは運命にほかならない。
 自由と運命は互いに結び合って意義深い人生を成立させる。
 以前は厳しい立場にあった運命はいつしか光明に溢れ「愛の死」として成就する。
 つまり今回の演奏は、上記を踏まえた上での「優しさ」と「歌心」が欠落しているように感じられたのです。
 もしかして完全なオペラ上演なら、出演者は歌いやすくオケはウィーンだったにしても伴奏に他ならないので
気にならなかったのかもしれません。
 しかし、私の中ではブルックナーにしても同じことで、精神の豊かな時代なら関係無いだろうに皹(ヒビ)の入りかけた今の社会では辛い響きにしか感じられなく、濃厚で根源的で神秘的な祈りに似た音楽であってもらいたかった。
 聴いている間ブルックナーが教会と繋がりを持っていたことさえ忘れていた。
 私にとってのブルックナーは宗教音楽だったはずなのです。
 昔テンシュテットの代役で初めてメストの「田園」と「運命」を聴いた時はもっと凄みがあって必死で、今のネルソンスなんかより惹きつけられた。
 あれから約20年経過し、場慣れしたのかな?それとも性格なのか?
 これが現代なのでしょうか。
 良い演奏だったとは思うのですが、仕方ない。