ヤルヴィのCD「シューマン1番3番」

 ヤルヴィ指揮ドイツカンマーのCD、シューマン交響曲1・3番。
 久しぶりに購入した新譜2,940円少々高い買い物だったけれど、色々と考えさせられました。
 タワーレコードではつい先日まで「このディスクで演奏会の予習をしましょう。」なんて宣伝文句が書かれていたけれど、私にとっては逆で演奏会の確認作業。
 録音状態がデットで、実演に接した初台のホールはお風呂屋さんみたいにライヴな音だから、同じ演奏家でも些か違って聴こえてきた。(ベートーヴェンのCDは聴いていないけれど似たような録音なのかな。)
 それでも響きすぎるよりは各楽器の音が明快ですから好ましく、50人たらずのオーケストラでシューマンである必要性と意義みたいなものが見えてきた。
 ややこしい話ですけれど感想は以下。
 何度か聴いているとシューマンって恐らく無骨なくらい真面目で、どこかで「夢見る気持ち」と「現実対応」が平気で同居すると信じていたように感じられてきました。
 例えば経済学じゃないけれど雇用と失業とか需要と供給などの均衡が崩れて、言葉が変だけれど精神がインフレ状態なのに平気で生きていたような特殊な印象。
 矛盾やパラドックスではなくて芸術上の二律背反とでも表現したらいいのかな。
 それでも創作上で本人が意識していたとは思えないし、面倒くさい社会に対しての軌道修正が必要な場合はクララが責任を持っていたのでしょうから、仕方が無い、単純に・・やはり作曲家は病んでいたと考えたい。
 いまだに耳にする、シューマンオーケストレーションに問題有りという実にくだらない話で、なんとなく意味は理解できるのですが、管楽器と人数の少ない弦楽器がぶつかりあう時、他のロマン派音楽に無い奇妙な「躁」状態のバランス感覚に快感さえ覚える。(弦が大人数だと旋律に溺れるような気持ちになる。)
 それは自己孤立的というより「文化的」な響きに感じられる。
 偶然?それでも普通に考えれば偶然は何度も来やしないし、これだけ沢山表現していれば必然と思われ、そうでなければ誰も演奏しないのではないのでしょうか。
 今までシンフォニーは10種類以上のCD・レコードを聴いてきたけれど、事実ヤルヴィほど哲学的で明瞭な演奏を他には知らないし、バーンスタインなんかが大きな編制で些細な旋律にさえ思い切り泣かせるくらい感情移入していた時代が随分と昔の出来事に感じられた。
 以上変な表現ですいません。
 
 ライナーノーツを読んでみたら「精神の病ではなかった」と表記されていました。
 そんな人が自殺未遂をするのかな。