テノール馬鹿 ジャンフランコ・チェッケレ死去 そしてカバリエも

 昨年のうちに書きたいと思っていたのは特別な音楽家の訃報にふれたこと。
 1月にロバート・マンやイーゴリ・ジューコフ等のベテラン演奏家が他界したが、実演で聴いていなければ単なるニュースにしか感じられない。
 ショックを受けたのは3月、指揮者のJesús López-Cobos(ヘスス・ロペス=コボス)だった。特別だった理由は、やはりベルリン・ドイツ・オペラの引っ越し公演。「ニーベルングの指環」全曲を指揮されたこと。
 4演目全曲オペラ形式は日本初演だった。良い演奏だったのか、息苦しくなるようなゲッツ演出が理想だったのかもうどうでもいいが、当時としては信じられない実力を持つワーグナー歌手が集結し歴史的上演が行われ、とにかく初めてリングを鑑賞した。これは人生が変化するほどの決定的な体験だった。
生きるために或いは死ぬときも同じなのか、幾つか歩むべき道がありそれを選ばなければならないとき、神様が「この道を歩みなさい。」はありえない。モーゼは天にむかって両手をのばしエジプト全土は暗闇につつまれたそうだが、でも普通は暗闇につつまれた天に手をのばすものであり、そうじゃなければ論理的秩序に反する。信ずるものは救われる理屈も誰が何を目的として発したのだろうか。過去を美化するときに老化が始まると思う。恐らく現在の演奏技術の方が進化しているでしょうし、経験の豊かさを基準にして思考すべき。
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 はたして「辻音楽師は私をどこに導くのだろう。」はどうだろう?詩の世界は個の妄想が真実を構築する異なる次元であり、できれば僕も夢の中で生きていたい。いずれにしても無秩序な社会に従う権利はなく自ら判断するしかない。それには誰と出会い何と出会うかで少なからず影響の大小があるのは間違いない。でもあまり気にする必要がないのは、どちらにしても結果は齎される。平成を振り返る企画か多いけれど、あの頃は良かったとか言わないでほしい。ノスタルジアの次にやってくるのはサクリファイス。老人と子供は木を植える。我々もそこから始める必要があるように感じる。

 最近棚を整理していてスペイン国立交響楽団もコボスで聴いたことを思い出した。
 社会に迎合していない興味深いプログラム。雑誌の懸賞で入手したチケットだった。空席だらけの東京文化。
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 リング体験していたとはいえピット内の姿だったから「この人がコボスだったんだ。」
 そして初めてスペインの団体を客観的にとらえることができたとは大きな収穫。白眉はボレロ。これを上回るボレロをあれから聴いていない。過去のそれではなくラテンの文化。その的確な血の表現に驚いた。アメリカのオケなら迫力は倍増するが血の文化より技術至上と個の表現が先に立つ。今はロシアから個からナルシズムに進化した奇妙な音楽が聴こえてくる。恐らく日本はそれを受け入れる。しかし本当に評価に値するものか、一時期な熱狂に終わるか、個人的にはどちらでも構わないが、好き嫌いは別にして新しい人は応援する立場です。
 ボレロに話を戻せば、ギエム?彼女はオンリーワンな存在。それに聴いているのではない。バレエは観るもの。
 2曲目バラーダの日本初演はギター音声だけPAが使用されていた。編成の大きなオケに対してアコースティックの小さな音は消えてしまう。細かなことは記憶していないが前衛的な作品。そしてソリストはなんとナルシソ・イエペスだった。実は巨匠に失礼な話ですが、当時でもとっくに他界していると誤解していたから、馬鹿な僕は「イエペスが動いている。」音楽を聴かず動く伝説を見ていただけかもしれない。
 アンコールは「アルハンブラ宮殿の想い出」 大ホールでの生ギターの音は小さく、咳払いどころか呼吸も出来ない緊張感。長い沈黙、気がついたら涙が出ていた。
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 その後コボスは僕の人生から遠い存在になった。しかしウィーンでカウフマンとゲオルギュー出演の「トスカ」、ベチャワやホロストフスキー出演「仮面舞踏会」の指揮をし、白髪になっていたが普通に街を歩いていた。
 たったの1年たらずでコボスとホロストフスキーは逝ってしまった。2人とも痛みと戦いながら舞台に立っていたのだろう。何故そこまでして生に拘るのか多少の疑問はある。しかし劇場には音楽の余韻と歴史が刻まれ人々の恵になったことでしょう。ムンクのように本人が公開したくなかったであろう作品が東の島国でビジネス対象として披露されることはない。

 ※ここまでは前書きみたいなもの。
 中書き。(前書きと後書きがあるからそういうのあってもいいと思う。)
 カバリエが亡くなった。
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 世界的なソプラノ。2回聴いたものの(オペラとピアノ伴奏のリサイタル)得意にしているであろう作品をそそのまま鑑賞した印象。全盛期を過ぎていたからか、深い感動まではいかなかった。リサイタルでは楽譜を無視したような極端なルバートで感情を込めて「ジャンニ・スキッキ」のアリア等。
 亡くなる少し前に僕はこの人を誤解していたことに気がついた。youtubeでの発見だったのだけれど、「アラベラ」や「イゾルデ」を歌っていたことを知らないでいた。それでトリスタン役はルネ・コロ。酷い音ですが全曲アップされていた。場所はリセウ劇場。そりゃミュンヘンやベルリンでドイツオペラを歌うことはなかったと思うが(歌ったことあるのかな?)このイゾルデがなかなか素晴らしいのです。コロも素晴らしい。カバリエに感じていた誤解とは挑戦する精神にあり、カレーラス同様に保守的な分野で活躍している人だと思い込んでいた。CD高額。音友立ち読みしか情報源のない時代の愚かで悲しき現実である。
 それで「カバリエ死去」に合わせるかのように書かずにいられないニュースが話題になった。
 それは映画でクイーンのフレディ・マーキュリー人気が復活してしまった現実。「バルセロナ」等で一緒に歌っていた2人が思い出された。あれは挑戦ではなく娯楽に近い感覚と思う。長年フレディはカバリエをリスペクトしていると公言していた。カバリエは笑顔で受け入れ楽しんで歌った。
実は僕は中学生時代にクイーンのコンサート(日本武道館)2回聴いているのです。レコードも途中まで全て揃えていて、フレディのボーカルに魅力を感じたことが、その後のオペラ好きに繋がったような気がしています。特に話題になっているのは「ボヘミアン・ラプソディ」の録音方式のようですが、つまりあれは極端なオーバーダビングで、実際に歌える音楽ではない。ちなみにフレディはライブで高音をキープできない。落差はショーの要素を取り入れて見せる技術を高めた。
テレビでドキュメンタリーみたいの放送していて、誰もやっていない初の試みのような表現があったが、似たような録音方法はそれ以前から彼らは行なっているのです。例えばボヘミアン・ラプソディ以前の曲では「Keep Yourself Alive」「Liar」「The March of the Black Queen」「Brighton Rock 」等にその傾向が強く、以降では次のアルバム内の「Somebody to Love」は既に合唱のようでロックから離脱したような曲。その後オーバーダビング控えめのアルバムが発売され進化を確認したものの・・なんかクイーン(そっち方面に飽きた。でも冷静に音楽界を振り返ればスティーブ・ライヒやテリー・ライリーはそれ以前から芸術の名のもとにそういうことを実験していたのだから、フレディのドキュメンタリーは半分は真実程度のものと感じた。バンド初なのかまでは知識不足ですが、飽きた世界に未練はない。
 FB繋がりの友人はわりと映画を観に行っているのだけれど、どこまで真実か疑わしい人の努力や苦悩をわざわざ暗闇の中で鑑賞すればパニック障害を引き起こす危険性あり。しかも観客はライトみたいの振り回してスクリーンを見つめている。そんな場所に行けるはずはない。知性と教養が許さない。気絶して救急搬送されるかもしれない。


 では本題に入ります。
 恐れていた大ニュース 「テノール馬鹿 ジャンフランコ・チェッケレ死去」
 世間的には一番どうでもいいニュースでしょうが、「馬鹿マニア」が抱える最大の悩みは、テノール馬鹿=絶滅危惧種という現実。
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 youtubeで見つけたヴェルディオテロ」から。2人への追悼の意を込めて。
 オテロ;ジャンフランコ・チェッケレ デズデモナ:モンセラット・カバリエ 涙なくしては観られない貴重な動画。
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  続いてチェッケレのソロで美しい旋律の曲。
 しかしどこかで聴いたことがあるような音楽だな?2度聴いて思いあたったのは、レハール「微笑の国」の「Dein ist mein ganzes Herz」(君は我が心の全て)にそっくりということ。「天国への階段」裁判どころのレベルではない。   
 でもレハールがマルチェルロを告発できるはずはない。しかし聴けば聴くほど同じに感じる。
 でも素敵なので楽譜が欲しくなった。
 でもチェッケレらしさが出ているので皆さん聴いてみてください。
 The tenor died in his hometown on 12 December 2018
Listen to the legendary tenor in a unique and rare LIVE recording of a song composed by his teacher Marcello Del Monaco : LA MELODIA
 「2018年12月12日テノールは亡くなりました。彼の師匠であるマルチェルロ・デル・モナコが作った珍しい曲のライブ録音。」マルチェルロ・デル・モナコはマリオの兄。タイトルが【LA MELODIA】ということかな。つまり「旋律」だろうが日本の概念とは異なる。
It's live (probably open air) and a bit underrehearsed but it's full of atmosphere and breathes of an Italy which regrettably doesn't exist anymore.
Date somwhere in the eighties and place unknown
 「ライブ録音のため納得できないとは思うが、残念ながら現在では存在しないイタリアの息吹がある。録音、場所は不明。」とても翻訳とはいえないけれど、のような意味でしょう。
 マリオ・デル・モナコと。良い写真です。
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 音楽用語でのla melodia ben marcato 「美しく豊かに旋律を歌う」、僕の想像ですが「失いつつあるイタリアの息吹」に相応しいように感じられてくる。
 美しさというと、どうしてもベルカントなる語を考えてしまうが、現在活躍しているベルカント歌手はフローレス(チリ人だけれど)やシラグーザが有名。つまりイタリーの古い時代のオペラ。例えばロッシーニ等を超絶技巧で巧みに表現するタイプ。でも劇場が大きくなりヴェルディワーグナーが上演されはじめると、劇的で大きな声量が求められてきた訳で、ドイツ系のヘルデンテナー、イタリーではデル・モナココレルリ・・その後パヴァロッティのような突然変異は別にして、マルティヌッチ、ボニゾッルリ、チェッケレ等のテノール馬鹿に継承された。どのようにして男としての限界の高音ハイCまで持ち上げるのか、理解のしようがないけれど、間違えた発声方法だったら直ぐに声が潰れてしまうことでしょう。
 古い時代の録音を聴いているとジーリやタリアヴィーニの存在は避けられないが、この2人の出す高音は素晴らしいのに、どこか別の次元に存在しているように感じる。ファルセットのような反則技か、そうでないような中間か、たぶん別の方法。つまりla melodia ben marcatoであったとしても「馬鹿」じゃないことへのストレスにいらいらする。
 
 後書き
 纏まりの無い文章でしたが、誰か凄いテナーが出てこなければ我が理想とするイタオペは崩壊する。
 驚いたことに動画サイトでチェッケレのオペラライブ全曲(ほぼ隠し録り)が増殖している。
 「テノール馬鹿」の復活を願っています。N○KのNイアーコンサートでうたっていた「馬鹿テノール」ではありません。必要とされているのは「テノール馬鹿」です。